こころは霧の向こうに
人に酔うなんて、田舎者丸出しだ。
苦く笑って息を吐くと、白い霧となって暗闇に消えていった。社交界にデビューし、あちこちの夜会に顔を出した5年前でさえ、上手くやれたのに。ブラッドがいてくれなかったら、あそこで倒れていたかもしれない。
ぎゅ、と膝に置いた両手を握り締めた。手にも足にも力が戻ってきていることを確認して、ソフィアは椅子からそっと立ち上がり、バルコニーの手すりに身体を預けた。大理石造りの表面から、手袋越しにひやりとした冷たさが滲みこんでくる。心を落ち着かせるにはちょうど良かった。
(ブラッドは、呆れたんじゃないかしら)
冷ややかだった今宵の態度を一変して、親身に介抱してくれたのは、かつての恋人の情けない姿に呆れ、同情したからではないだろうか。昔の知り合い――それも、親しかった相手に、失態を見られるのは恥ずかしい。
取りとめもなくブラッドへと向かっていきそうな思考を振り払い、ソフィアは暗闇に覆われた庭園へと目をやった。
オルソープ公爵夫妻自慢の庭園は、豊かな緑に溢れていると評判だが、夜も更けたこの時間は黒のベールにひっそりと沈んでいる。背の高い木々が黒々とした影となって佇立しているのが、薄闇の中に識別できる程度だ。
姿は見えなくても、土の匂いが夜露を帯びて、しっとりと風に乗ってくる。それを嗅ぐと、荒々しい自然に抱かれたヨークシャーの我が家が恋しくなる。望郷の念に囚われそうになった時、背後からブラッドが呼ぶ声が聞こえた。
「すまない、待たせたね」
「いいえ、そんなことは――」
いいかけながら振り返ると、長身の体躯は案外すぐ側まで近づいていた。僅かな距離に驚いて見上げると、深い青の瞳に苦しげな光が一瞬煌いたように思った。直後に何食わぬ顔をしてグラスを差し出してきたから、ソフィアの見間違いだったかもしれないが。
薄暗い中で、グラスには濃い色の液体が揺れているのが見えた。
「気つけ薬の代わりだ。1口でも飲むといい」
ブランデーだ、とグラスを渡されて、恐る恐る飲み込むと、濃厚な味わいが口の中に広がった。喉を通り抜けて熱いものが臓腑へと落ちていくのがわかる。もう1口だけ啜って、テーブルの上に置いた。
それから、お礼をいっていなかったことに気づいた。
介抱してくれた上、飲み物まで取ってきてくれたのだ。ブラッドの真意がどうであれ、世話になったのは間違いない。感謝の気持ちは、素直に伝えておきたかった。タイミングを逃さないうちに。
アルコールのせいだろう、少し潤んできた双眸を彼の顔に当てて、ソフィアは親しみをこめて微笑んだ。サファイアの瞳と、灰色がかった青い瞳が、薄闇の中でぶつかった。
「ありがとう、ブラッド」
何が契機になったのか、ソフィアにはわからなかった。見つめた視線がいけなかったのか、感謝の言葉がいけなかったのか、それとも彼の名を口にしたのがいけなかったのか。ソフィアが理解したのは、ブラッドの瞳に再び苦悶の表情が浮かび、次の瞬間には真っ青な炎が、全てを焼き尽くそうとしたことだけだった。
何が起きたのか把握するには、頭がついていかなかった。ブラッドの手が腰に回ったかと思ったら、彼の胸に引き寄せられていた。鼓動が聞こえるほど、ぴったりと抱き締められていた。
戸惑ううちに片手で顎を持ち上げられ、気づいた時には唇を塞がれていた。顎から離れた手がうなじに回り、がっしりと姿勢を固定されている。逃げ場を失ったソフィアは、彼の荒々しいキスを、大人しく受け入れることしかできなかった。
咄嗟のことで身体を固くしたものの、荒っぽさはすぐに消え失せ、宥めるようなキスが唇だけでなく頬にも額にも振ってくる。柔らかな唇に包まれているうちに、ソフィアの身体からは力が抜けていった。
ブラッドのキスは再びソフィアの口元に移り、唇をそっと挟み込んだ。ぴったりと覆って、彼女をまるで食べ尽くしてしまうかのようだ。すぐにも深いキスが落ちてくると思ったけれど、彼はただ、何かを堪えるようにそれ以上は求めなかった。唇を触れ合わせているだけだった。
たまらずにソフィアが自分からキスしたままの唇を押しつけると、ブラッドは弾かれたように身体を離した。火傷でもしたかのように、ドン、とソフィアを突き放したのだ。
彼の豹変に戸惑い、先ほどよりも潤んだ瞳で、ソフィアはかつての恋人を見上げた。薄明かりの中でもはっきりとわかる。ブラッドの顔に浮かぶのは、明らかな驚愕だった。
やがて彼は眉を寄せ、何かを堪えるように唇を引き結んで、ソフィアから顔を逸らした。両手をぐっと拳にして、かすれた声を喉から絞り出して、彼は告げた。
「――そろそろ中に戻った方がいい。ウィルが君を探しているだろうから」
ソフィアは形の良い眉を顰めて、苦しそうに歪んだブラッドの顔を見つめた。嘲笑したり、優しかったり、彼の態度がわからない。
「ブラッド?」
無意識に片手を伸ばして、彼の腕に触れようとした時、
「今のことは忘れてくれ」
取りつくしまもない氷のような声と、一度だけ向けられた眼差しに浮かぶ拒絶の色に、ソフィアは思わず息を呑んだ。先ほどまでの親密な空気は、とっくに霧散したのだ。冷徹に光るサファイアには、ソフィアの姿はもう映っていなかった。はっきりわかるのは、嫌悪と憎しみ、そして後悔の色。
行き場のない手を、もう片方の手でぎゅっと握り締め、震えそうになる声を励まして、顔を背けている人に告げた。彼はもう、ソフィアに興味を失ったようだった。無言で佇む、黒い影と化していた。
「――もう行くわ」
どうにかそれだけを絞り出して背を向けると、それ以上平静さを保ってはいられなかった。こみ上げてくる涙を必死で押し戻し、ソフィアはその場から逃げ出した。この夜何度も欲したように、バルコニーを駆け抜けて、ブラッドの前から姿を消した。ホールに戻って後ろ手に窓を閉めてガラス戸にもたれかかり、やっと胸を撫で下ろす。解放された安堵に包まれるはずなのに、胸に湧き上がったのは惨めな悲しみだった。憎まれるのは仕方がない。けれど、後悔されるのだけは耐えられない。
目の奥がツンと痛くなり、熱いものが溢れてきそうな気配がする。それを力をこめて押し戻し、深呼吸をして昂ぶった精神を宥めようとしたけれど、なかなか上手くいかなかった。背中をさする手がもたらした甘い温もりが、どうしようもなく恋しかった。