こころは霧の向こうに

3

 これまで幾度も繰り返されてきたように、その年も、霧の都の社交シーズンが、幕上げを告げた。





 目に映るきらびやかな世界に圧倒されて、ごくりと唾を飲み込んだ。綺麗に紅を差した唇は、緊張で乾いてしまっている。それを舌先で無意識に湿らせようとして、唐突に舌を噛みそうになり・・・・・・ソフィアは慌ててごまかした。先導して歩いている大叔母が、不意に振り返ったところだった。
「あそこにいらっしゃるのが、今日のホスト役。オルソープ公爵夫妻よ。さあ、ご挨拶にいきましょう」
 エミリー大叔母が目で指し示したところは大階段の上で、そこには大勢の紳士淑女に囲まれている小柄な老夫婦の姿があった。彼らのところにたどり着くには、長蛇の列に並ばなければならない。
 エミリー大叔母に手で示されるまま、ソフィアは大人しく、彼女の後について列に加わった。ちらりと後ろを見ると、既に最後尾は見えなくなっている。これだけ沢山の紳士淑女を一度に目にするのは初めてだったし、誰もが華やかな色彩を身につけていることに驚いた。話には聞いていたけれど、実際目の当たりにすると迫力が違う。

 母のいないソフィアが肩身の狭い思いをしないようにと、エミリー大叔母が、ロンドンに着いてすぐ、衣装など細々したものを整えてくれていて良かった。ピンク色のシフォン地のドレスを着た自分は、何とかうまく、この空間に紛れ込めているようだ。  それに力を得て、ソフィアは名高い公爵夫妻をもう一度眺めようと、首を伸ばして目を凝らした。社交界きっての実力者で、王族にも影響力を持っているといわれる著名な老夫婦の話は、世話好きな大叔母から散々聞かされていたが、これほどとは思わなかった。何しろ、この巨大な城館に到着した大勢の客が、列をなして彼らに挨拶をする瞬間を待っているのだ。威厳たっぷりの老紳士や、貫禄のある貴婦人も、誰もがあの老夫婦に頭を下げ、言葉を賜る機会を待っている。
 公爵夫人と親しいという大叔母が、ついていてくれるのが心強かった。社交的な彼女は、夏は保養地のバースに、冬は領地のあるサマセットを出てロンドンの社交界に顔を出しているから、顔がきくし、世慣れている。

 妻をとうに亡くしている甥が、一人娘の社交界デビューを気遣ってやれるほど細やかな神経をしていないと決めつけて、エミリー大叔母がロンドンのアトレー男爵家に乗り込んできたのは、ソフィアにとっては幸いだった。

 アトレー男爵は、サマセットにあった先祖伝来のこじんまりとした館とささやかな領地をさっさと手放し、祖父や父が出した損失を穴埋めしようと、慣れない事業にかかりきりで、幼い娘のことを思い出しもしなかった。ロンドンのタウンハウスで生まれたソフィア・エルディングは、父に大して関心を持たれないまま成長した。ロンドン郊外の女子寄宿学校へ入学し、3年間みっちりと淑女の素養を仕込まれて、前年のクリスマスに父の家へ戻ってきたところだった。父は特に反対もせず、ソフィアは大叔母のサマセットの家とロンドンの家を往復する生活を送った。
 男爵家代々の家と土地をあっさり手放した甥を、エミリー大叔母は信じようとはしなかった。父親が頼りにならない代わりに、素敵な婿を得て、幸せな生活ができるようになさいといって、腕によりをかけて、ソフィアのデビューを手伝ってくれたのだ。
 社交界に属する人間なら皆欲しがるという、オルソープ公爵夫妻主催の舞踏会への招待状を手に入れてくれたのも、気のいい大叔母だった。この舞踏会に出れば、社交界で名士といわれる人たちに逢うことができる。アトレー男爵位は、親戚の適当な男子に譲られることになっていたから、実家のことは気にせず、ソフィアは未来の夫探しに励めばいい。心遣いには感謝するものの、17歳のソフィアにとって『夫探し』はまだ身近な問題ではなく、無邪気にも、華麗な社交界を体験できる喜びと期待の方が、大きな比重を占めていた。
 さすがに社交シーズンを3回体験しても未婚のままだと、オールドミスの烙印を押されるそうだが、これが1シーズン目なのだから、最初から焦るつもりはなかった。実家を早く出たい気持ちはあるが、当面エミリー大叔母のもとに居候する予定になっているし。

 そうこうしているうちに、今宵の主人夫婦の前へと押し出された。高価そうなティアラを白銀の髪に留めている小柄な老婦人は、エミリー大叔母と言葉を交わした後、ソフィアにも人の良さそうな笑顔を向けてくる。
「あなたがレディ・スタンレーご自慢の娘さんね。楽しんでいってちょうだい」
「恐れ入ります」
 ロンドンに出てくる前、場慣れするため、サマセットでも小さな夜会に顔を出していたけれど、高貴な方の前に出るのは生まれて初めてだ。緊張しながらも、何とか主人夫婦への挨拶を終えて、ホールへ降りてから漸く息を吐いた。

 エミリー大叔母は、次々と知人を見つけて談笑しているが、ソフィアに話しかけてくる人はいない。ロンドンでの知り合いは、女子寄宿学校時代の友人ぐらいだが、この広い会場では見つけ出すのも困難だ。
悪目立ちしないよう大叔母の横にぽつんと立って、大人しく話を聞くふりをしながら、会場を観察していたソフィアの視界に飛び込んできたのは、1人の若者だった。最初のダンスのパートナーを務めることになっているスタンレー子爵家のトーマスと一緒に、ソフィアたちの方へ近づいてくる彼から、視線を外すことができない。目の前に立ち、優雅に礼をする姿を、ソフィアはぼうっと眺めているしかできなかった。
「こちらはブラッドレイ・ヒューズ卿。バリー伯爵家の次男で、私とはイートンの顔見知りなんだ」
 トーマスの台詞が、頭の中をぐるぐる回っている。目の前の若者の、真っ青の瞳に見つめられて、ソフィアは身動き1つできなかった。
「こちらはソフィア・エルディング嬢。アトレー男爵の一人娘で、これがデビューなんだ。私もあまり社交界に詳しくないし・・・・・・良かったら相手をしてやってくれないか」
「ええ、喜んで。次のダンスのお相手をお願いできますか?」
 華やかに微笑んで、ブラッドが右手をそっと取り、甲に唇を近づける。手袋越しにやわらかな感触が押付けられるのを感じると、恥ずかしくて頬が赤くなるのがわかった。上目遣いに見つめられると、自分1人が特別扱いされているようで、どぎまぎしてしまう。
 トーマスがダンスフロアへ誘うまでの間、ブラッドは親しく言葉をかけてくれたけれど、ソフィアはあまり満足に受け答えできずに、縮こまってしまっていた。あれでは、田舎臭い娘だと呆れてしまったのではないだろうか。自己嫌悪でいっぱいになった心も、カドリールの陽気な音楽に触れた途端、羽が生えたように軽くなる。
「相変わらずダンスは絶品だね、ソフィア。君ほど上手く踊るレディは、ロンドンにだってそうはいないよ」
 幼馴染で気のいいトーマスが、息を切らせながら賛辞をくれる。軽やかなステップを踏みながら、こちらは息を乱さずに、ソフィアはにこりと礼をいった。
「ありがとう」

 ダンスを踊ること、絵を描くこと。
 幼い頃より才能を発揮した、この2つの趣味に没頭している間は、ソフィアの心は現実のあらゆる問題から解放される。今も心は浮き立って、旋律を追うことに夢中になっていた。ソフィアのダンスの腕前はサマセットでは有名で、大抵の紳士は彼女の優美で身軽な動きについてこれずに、途中で息切れしてしまうのだ。

 カドリールを終えて、トーマスにエスコートされながらエミリー大叔母のもとへ戻ったときも、ソフィアの頬はうっすらと赤く色づき、灰色がかった青い瞳は星のように輝いていた。その輝きは、黒髪の長身の若者が向ける深い青い瞳とぶつかっても、色あせることはなかった。
 トーマスからソフィアを譲り受け、長い手足を優雅に使ってエスコートしながら、ブラッドは横を歩く蜂蜜色の髪をした令嬢をそっと見下ろした。色白の頬に朱が差し、長いまつ毛が被さっている瞳は、キラキラと楽しげな光を宿して、夕暮れの空に輝く明星のようだ。すっきりとした横顔のラインを下に辿ると、ふっくらとした唇が、誘うように小さく開いているのが目に入った。
 瑞々しい唇の味を試してみたい。よこしまな衝動が沸き起こるのを、何食わぬ顔をして抑えこみ、ブラッドはダンスフロアの真ん中に到着すると、ソフィアに腕を回して、音楽が始まるのを待った。
 オーケストラの旋律が鳴り始めるまでの、短いひと時だった。それまで伏し目がちにしていたソフィアが、ふと顔を上げ、ブラッドを仰ぎ見たのだ。おずおずと、上目遣いに見上げてくる、夢見るような物問いげな眼差しが、自分に注がれるのを意識した瞬間、ブラッドの心臓は、一時動きを止めたような気がした。
 令嬢たちの誘惑には慣れていたし、かわす自信もあるけれど、ブラッドはこのとき、甘美な苦痛を持ってソフィア・エルディングの瞳に魅入られたのだった。そしてソフィアも。心の中を見透かすように見つめてくるサファイアのような瞳から、目を逸らすことができない。2人は、息をするのを忘れたまま、じっと見つめ合った。

 凍りついたような2人を現実の世界に引き戻したのは、オーケストラが奏で出した旋律だった。はっとした2人は、どちらからともなく微苦笑を浮かべ、音楽に乗って滑るように踊りだした。
 1度2度とターンしてすぐに、ソフィアは驚きに目を瞠って、涼しい顔をして自分をリードする若者を見上げた。
(この方・・・・・・とてもお上手なのだわ)
 ソフィアの軽快な動きに遅れることなく、すらりとした身体を活かして、ぴたりとついてくる。これまでダンスの相手が気後れしないよう、気を遣って踊ってきたソフィアも、この相手には安心してリードを預けることができそうだとわかり、感謝の微笑を向けた。
 息を乱さずに微笑みを返してくるブラッドは、ソフィアの華奢な身体を上手く支え、2人は息がぴったりと合ったダンスを見せた。生き生きと踊る若々しいカップルの様子は、瞬く間に噂になり、ロンドンに不慣れなアトレー男爵令嬢は、いつの間にか、令嬢たちの嫉妬の的となっていた。
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