こころは霧の向こうに
 ドアからちょこんと首を出し、きょろきょろと左右を伺って、誰もいないことを確認すると、ソフィアはそっと戸外へ滑り出た。身軽なモスリンの外出着に、同じ生地で仕立てたボンネットは、顎の下で結んだリボンで蜂蜜色の頭にちょこんと止まっている。他家の屋敷だけれど、この2週間ほどで地図は頭に入っている。予想通り、召使用の出入り口から外へ出たソフィアを見咎める者はなく、そそくさと使用人棟の脇を通り抜けて、庭園のはじへ出ることに成功する。
 巨大な温室の前に出て、ソフィアはほっと息をついた。手に提げたバスケットをぎゅっと握り締めて、左右に続く小道に人影がないかどうか確認する。砂利が綺麗に敷き詰められた小道は、ひっそりと静まり返ったままだ。
 午餐の後のこの時間は、夜に備えて昼寝をする者が多い。ソフィアはこっそりと部屋を抜け出してこれたのも、エミリー大叔母が休憩するといって寝室に引き取ったからだ。廊下を歩いていても、すれ違ったのはメイドくらいで、1人きりでボンネットを被ってバスケットを下げたソフィアに声をかける者はいなかった。

 唇の端を上げて、ソフィアは悪戯っぽく瞳を煌かせると、温室の横を抜ける下りの小道へと足を向けた。緩やかな傾斜を描きながら、温室をぐるりと回りこむこの道を辿ると、屋敷の裏手に広がるこんもりとした森と、花々が咲く草原に抜けることができる。
 裏に続く丘を越えたところに、古い僧院の遺跡があるとメイドがいっていたのを聞いてから、こっそりと行く機会をうかがっていたのだ。幸い、昼下がりの空は雲が多いものの、太陽の熱を伝えてきており、パラソルを持参するまでもない。身軽く屋敷を抜け出すには絶好の機会だった。

 ソフィアに甘いエミリー大叔母なら、1人きりで外出するという計画を聞いても、眉を顰めはするものの、止めないだろう。けれどこの午後、ソフィアは誰にも何もいわずに、決行した。どうしても1人になる必要があった。

 ゴールド・マナーは蛇行する川に沿った傾斜の上にそびえており、温室の裏手からは、ハンプシャーの豊かな大自然を貫いて流れるテスト川が一望できる。しかし今のソフィアは、一心に目的地に着くことだけを考えていた。軽い靴を履いた足を励まし、温室を過ぎて緩やかな上りになった坂道を黙々と進んだ。やがて正面に緩く連なる丘を、左手に森へ続く小道と分かれるところに出て、漸く、深い息を吐き出した。
 右手には低い柵が続き、牧草地となっている。そちらにも人影はなく、丘の向こうを目指すソフィアを妨げる者はいなかった。
 ぐいと顔を上げ、珍しく瞳を青に燃え立たせて、ソフィアは足を進めた。バスケットを持つ手を持ち替えると、籠の中でスケッチブックがバサリと音を立てた。

 バリー伯爵家自慢のカントリーハウス、ゴールド・マナーで開かれているハウスパーティーに招かれて、2週間。華やかな催しを楽しんではいたけれど、うんざりする気持ちを持て余してもいた。

 ソフィアが招かれたのは、エミリー大叔母がオルソープ公爵夫人経由で口を利いてくれたからだ。そうでなければ、サマセットのしがない男爵令嬢が、この名誉ある滞在を許されるはずがない。招かれているのはいずれも名家の紳士淑女ばかりで、気後れしそうになるソフィアを支えてくれたのは、同行したエミリー大叔母と、バリー伯爵家のブラッドの存在だった。
 例えば友人のウィニーもここに招かれていれば、多少のことは笑い話に昇華させて、我慢できたかもしれない。だが彼女は、ここにはいなかった。エミリー大叔母に心配をかけるのは嫌だったし、ブラッドに愚痴るのはもっと躊躇われた。だから1人きりで抱え込んでいたのだが、2週間が過ぎると、そろそろそれも限界だった。
 他愛もないことなのだ、1つ1つは。ゴールド・マナーに滞在している他の令嬢たちが、これみよがしにソフィアをのけ者にするのも、聞こえよがしに悪口をいうのも、1つ1つは些細なことで、思い悩むほどのことではない。けれど、それが毎日・・・・・・朝食室に始まり、晩餐の後の談話室に至るまで、ネチネチ続けられると、気丈に振舞っていても、疲労が蓄積してくる。

 更にこの頃では、ソフィアが見境なくブラッドを誘惑しているふしだらな女のようにいう者まで現れて、好色そうな中年紳士が、ちょっかいを出そうと寄ってきたりするのだ。そういう陰湿な噂を中心になってばらまいているのは、名家のご令嬢だというレディ・アイリーンで、彼女とその取り巻きが、滞在当初からソフィアを目の仇にしているのだ。
 彼女たちがブラッドを熱烈な眼差しで見つめ、追いかけているのを知っているから、夜会のたびにブラッドがソフィアとしか踊らないのを、面白く思っていないのも理解していた。
 それに彼女たちのほとんどは、どんなことをしていても、ソフィアよりも由緒正しい上流の家の娘なのだ。社交界デビューに当たって、女王陛下に拝謁することを許される身分。身分を厳正に規定する社交界のルールにおいては、どれほどブラッドがソフィアに関心を寄せようと、所詮身分違いでしかない。男爵家の令嬢といっても、領地や館を失って久しい家の娘だ。イギリス貴族でも指折りの旧家というレイモンド侯爵家の嫡流とは、どうやっても釣り合わない。そこを突かれると、ソフィアは黙り込むしかない。

 一方で、ブラッドの考え方は違うようだった。

 オルソープ家の舞踏会以降、ブラッドはソフィアを頻繁にエスコートするようになり、このゴールド・マナーでも、ソフィアとしかダンスを踊らなかった。全曲ソフィアと踊るのはさすがに避けているものの、彼女とワルツを踊った後は、他のご令嬢から逃げるようにカードルームやビリヤード室に逃げ込み、ソフィアに悪戯をする不届きな紳士がいないよう、監視の目を光らせている。
 朗らかで優しいブラッドの存在は、日に日にソフィアの中で大きくなっていた。最初は、遊び慣れた名家の子息だからと警戒する気持ちもあったけれど、ハンプシャーに来て以来いっそう距離を縮めた彼には、数日前に抱擁とキスを許していた。愛しい人との接触は喜びを生むのだということを、ソフィアは新たに学びつつある。
 だからこそ、他の令嬢たちのことで悩んでいるのを、彼に相談するわけにはいかなかった。ソフィアの表裏のない笑顔がいいといってくれた彼を、このようにつまらないことで、困らせるわけにはいかなかった。

 曇りなき太陽のような彼が、その裏で、重責を負っていることを、ハンプシャーに来てから徐々にソフィアは知っていった。2年ほど前に父親を事故で失い、母親は後遺症に苦しんで寝たきりだという。イギリスでも屈指の名家を若くして継いだ兄を、片腕として支えるのが、ブラッドに与えられた役割だった。イートンを出て、オックスフォード大学の学生になったばかりだったが、彼は講義に出て単位取得に勤しむ傍ら、兄の代理で領地を回り、実情を把握する役目を買って出ていた。
 身軽な独身者の役回りにちょうどいい、とからりと笑っていた彼は、2日前から近隣の領地に外出している。昨夜遅くに帰宅するはずだったが、朝食室でも午餐の席でも姿を見かけず、午餐の後に彼専用の書斎を覗いたけれど、使用した痕跡はなかった。

 大丈夫。わたくしだって、寄宿学校でお姉さま方に鍛えられているわよ。

 令嬢ばかりが集まる寄宿学校では、女性特有のいじめや喧嘩など、日常茶飯事だった。勿論、舎監の先生や上級生のお姉さま方に監督され、優しくも厳しい指導を受け、次第に皆、仲間意識が芽生えて仲良くやっていくようになる。自分が上級生になると、寮の副監督生になり、下級生たちの仲裁に回るので忙しかった。
 今はちょっと、疲れているだけなのだ。名家のご令嬢に混じって生活するのは慣れてないし、連日の夜会で、少し気だるさを覚えていた。気分転換すれば、またいつもの自分に戻れる。
 僧院の遺跡がある辺りは、とても美しいとメイドがいっていたから、スケッチブックに向かえば、余計なことを考えずに済むはずだ。踊ることと、絵を描くこと。この2つは、ソフィアにとって、心の洗濯に必要な手段なのだ。




 愛馬を駆けさせながら、ブラッドは目当ての人影を探して、四方に気を配っていた。厩から引き出した栗毛の愛馬を、屋敷の裏手側に回り込ませ、通用門を抜けて、牧草地と丘陵、森への3方向へ道が分かれる辻を目指していた。
 錘をつけたように重かった全身が、十分に休養を取った後のように軽い。瞼を閉じると2度と開かないのではと思うほど、ズキズキと痛みを訴えていた双眸が、今はらんらんと輝いている。
 つい先ほどまで、午睡を貪る気満々でいたのが、嘘のようだ。

 身動きの取れない兄に代わって、近隣の領地の定期巡回に出たのが2日前の早朝だった。いつもより日程を詰めたから、強行軍となり、珍しくくたくたになった。
 帰宅したのが夜更けだったため、兄への挨拶は後回しにして自室へ直行したのが、半日ほど前のこと。ベッドへ倒れこんで、睡眠を貪っていたところを、今度は執事に叩き起こされたのが、早朝だった。産み月が近づいている義姉のベッキーの体調がすぐれず、心配のあまり蒼白になった兄の命令で、隣村まで医師を呼びに馬車を走らせ、連れ帰ったのが、午前も半分が過ぎたところだった。薬を処方されたベッキーは寝入り、兄と2人やれやれと胸を撫で下ろした。それから診察を終えた医師を村に送り届け、帰宅して食事を済ませた時には、客人たちが休憩を一斉に取る昼下がりになっていた。
 朝食と午餐の席で、ソフィアに逢う機会を逃してしまったが、寝不足の顔で逢うのもみっともない。そう思って、午睡を取ろうと3階の自室に戻り、カーテンを引こうと窓辺に寄ったら、目に入ったのだ。中庭を抜けていく想い人の背中が。いつでもどこでも彼女の姿を鮮明に思い浮かべられるくらいだから、他のご婦人と取り違えることはない。蜂蜜色の髪の持ち主は、彼女しかいなかった。何やらバスケットを提げ、周囲を窺いながら、どこへ行くというのだろう。皆寝入っている時間に、侍女も連れずに1人きりで出歩くつもりらしい。
 バルコニーに出て手すりから身を乗り出し、彼女の行く先に見当をつけて、ブラッドはすぐさま階下へと駆け下りていった。良い夢を見ている方々の邪魔をしないよう、ゲストルームのある2階を通る時は、猫のように足音を消すのを忘れなかった。途中ですれ違った執事が、珍しく動揺を顔に出していたのを目の端でちらりと捕え、笑いを堪えて玄関ホールを駆けた。
 その勢いのまま厩に駆け込み、驚く馬丁を急かして鞍をつけさせ、ひらりと飛び乗った。乗馬服も着ていなかったが、敷地内を愛馬で駆けるだけだからと、気にならなかった。
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