こころは霧の向こうに
 分かれ道に出たところで、1度足を止めた。いななく馬を宥め、馬上で背中を伸ばしてぐるりと周囲を確認すると、丘の上に青いドレスが翻るのが見えた。あんな遠くまで行くとは、随分早足で歩いたに違いない。1人きりで屋敷を抜け出し、どこへ行こうというのだろうか。この丘の先には僧院の遺跡があるから、おそらくそこへ向かっているのだろうと予想はつくものの、逃げるように急ぐソフィアの後姿が、ブラッドの胸に引っかかった。何がソフィアを急かすのかわからないが、彼女が離れていくのを、ここで黙って見ていることはできない。
 部屋を飛び出した時には、ソフィアと2人きりで逢えることへの喜びが全身を支配していたが、他人を拒絶するような彼女の背中は、一抹の不安を呼び起こしていた。いつか同じ光景を、再び見るのではないかという奇妙な予感と共に、それは身体の奥底から囁きかけてきた。

 彼女は、いつかブラッドのもとから去っていってしまうのではないか。

(そんなはずはない!)
 強く打ち消して、頭を勢いよく振る。過労で、神経過敏になっているだけだと自分に言い聞かせると、気を取り直してブラッドは再び手綱をぎゅっと握った。丘の上の人影は、青い点のように小さくなっている。絵のように牧歌的な風景の中に、動く人間はソフィアとブラッドの2人きりだった。森にも丘にも牧草地にも、誰も出ていないようだった。
 バリー伯爵家の敷地内だし、昼間でもあるから、あまり危険はないとは思う。が、彼女から目を離さず、且つ、驚かさない距離を保って、暫くは後をついていこう。
 そう決めて、ブラッドは馬に合図をやると、ソフィアの後を追って丘へと進みだした。








 こんなに歩いたのは、久しぶりだ。

 目的地にたどり着いたとき、ソフィアは軽く息を切らせて、薄っすらと汗をかいていた。4月になるかならないかという時期の空気は、まだ肌寒さを漂わせているけれど、丘を越えて休まず歩いてきたソフィアには、心地よい涼しさだった。
(今日は雲があるからまだ気温が低いけど、これで晴天だったら、汗だくになっていたわね。今日の午後に決めて正解だったかも)
 屋敷を出たときよりもどんよりと厚みを増した雲に、感謝の眼差しを向けてから、ソフィアはバスケットを草の上に置き、そこからクロスを取り出した。ちょうど僧院の全容を眺められる位置に陣取って、草の上に広げたクロスを敷くと、そこに腰を下ろす。今度はバスケットからスケッチブックと鉛筆を出して真っ白なページをめくると、自分の膝を机代わりにして一心に手を動かし始めた。

 長い年月の間、風雨にさらされてところどころ崩れかけた僧院は、ひっそりと窪地に佇んでいる。訪ねる者もあまりいないのか、荒らされた形跡もない。メイドの話では、敷地内にあることから、バリー伯爵家が時折、崩落などないか確認しているということだった。
 長く人の手を離れているためか、色あせた煉瓦の隙間から、ところどころすっくと空に伸びる草がある。名も知れない草の青さが、冬は確かに終わり、春へと季節が移り変わりつつあることを教えていた。
 窓枠も外れ、ドアもとうに朽ちて、がらんとした遺跡の中に、かつてそこに暮らし、祈りを神に捧げた人々の姿が、想いが、目に見えない力となってソフィアの感性を刺激する。彼女の目には、空虚な廃墟ではなく、人の想いに包まれ、年月に優しく愛された古い建物は、素描の素晴らしい題材として映っていた。
 この場に残る思い出を確かな形になぞるように、白い紙の上に、丹念に鉛筆で描き出していく。濃淡の差を加えると、平坦だったスケッチは魂を吹き込まれ、たちまち生き生きとしてくる。

 こうなると、ソフィアの全身の感覚は素材に対してのみ研ぎ澄まされ、木々にさえずる小鳥の声も、微かに遠くに聞こえるカウベルも、一切遮断されてしまう。輪郭の最後の一筆をなぞり終えるまで、飲まず食わずスケッチに没頭するのが、彼女の性分だった。視覚から受け取る情報が、全身の感覚を席巻してしまうとでもいうべきか。
 視覚に追いやられてしまった他の感覚を取り戻すには、本能に働きかけてくるような危険が迫るほど、切羽詰った状況に追い込まれなくてはならないだろう。この時も、ソフィアの意識を引き戻したのは、馬の蹄の音といななきが、すぐ後ろに聞こえたからだった。びくりと手を止めると、草を踏みしだく靴音までが近づいてくる。

 誰かが背後から近づいているのだ。

 不自然に思われぬよう、何気なく立ち上がり、ゆっくりと後ろを振り向いた。何かあれば、右手に握り締めた鉛筆で反撃するつもりだった。ソフィアの瞳が相手を認めたのと、声をかけられたのはほとんど同時だった。
「ミス・エルディング」
「――!!」
 驚きに声も出ず、大きく開いた喉からは、ヒッと息を吸い込んだような音が漏れただけだった。生温かい鼻息がソフィアの顔にかかるほどすぐ側に、栗毛の馬の賢そうな目が近づいていて、手にしていたスケッチブックも鉛筆も放り出して、反射的にソフィアは後ずさった。馬は苦手ではないけれど、突然至近距離に出現されるのは、心臓に悪い。動揺したせいか、左足を地面に取られて、ぐらりと上体が傾いだ。このままでは背中から地面に激突する――と、目を瞑ったとき、力強い腕に抱きとめられた。

「すまない、驚かせたね」

 耳元で、心地よいバリトンの声が響いた。この声は、あの方のもの。顔を輝かせて目を開けると、ブラッドの穏やかな微笑がそこにあった。至高の宝石のような深い青をした双眸が、こちらを覗きこんでいる。どこまでも果てしなく吸い込まれそうな、深い淵のような色の中に吸い込まれそうな錯覚を覚えて、言葉が出ないままに見つめ返すと、ちらりと青い炎が踊るのが見えた。あ、と思った時には唇が近づき、溶けるようなキスを交わしていた。
 赤い唇をたっぷりと堪能してから顔を離したブラッドは、ソフィアをきちんと立たせてから、長身を屈めてスケッチブックと鉛筆を拾い上げ、恭しく恋人に差し出してみせた。
「どうぞ、お嬢様」
「ありがとう」
 頬を赤らめて花のように微笑むソフィアが眩しくて、ブラッドは目を細めた。分厚い雲の向こうにある太陽よりも明るく輝く星を、眺めるように。
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