こころは霧の向こうに

4

 ちょっとでも身じろぎをすると、左の足首に鋭い痛みが走る。眉を寄せたソフィアに、両腕を差し伸べながら、ブラッドは表情を曇らせた。
「ミス・エルディング?」
「大丈夫です」
 心配かけまいと笑顔を取り繕おうとした努力も虚しく、真っ青な双眸は、患部がソフィアを苛んでいることを簡単に看破しているようだった。細く華奢な腰に両手を添え、軽々と鞍から抱きかかえて降ろすと、彼女の左足に負担がかからないよう、支えてくれた。
「もう少しの辛抱ですよ」
 耳元で親密そうに囁かれ、ソフィアの白い頬が一気に赤くなる。それを好ましげに見遣ってから、ブラッドは素早く彼女の膝裏に左腕を回し、抱き上げてしまった。思わぬことに、ソフィアは耳まで赤らめて、上ずった声を上げる。
「ヒューズ卿!」
「大人しくしてなさい」
 しっかりと抱え上げる腕はびくともしなくて、危なげない足取りで、幹に手綱を結びつけた愛馬から離れ、目の前の狩猟小屋へ向かう。ブラッドが器用に片手でドアを開けたとき、雨粒が頬に落ちてきた。ソフィアが見上げた空は、すっかり厚い雲に覆われて、太陽の熱さえも遮られている。

 古い僧院の立つ窪地から、ゴールド・マナーの森に隠れているこの狩猟小屋まで、馬で移動してきたからさほど時間がかからなかった。だが、僅かな距離の間でも、ソフィアの心臓はいつもよりずっと激しく鼓動を打っていたから、現実の倍以上の時間が経ったような気がする。
 楽しい写生を中断し、憧れの貴公子に抱きかかえられる羽目になったのは、窪地でブラッドに声をかけられたソフィアが、左足を草に取られ、挫いてしまったことが原因だった。
 バランスを崩して倒れることだけは、ブラッドの力強い腕に抱かれて防いだものの、運悪く妙な方向に足首を捻ってしまったらしい。最初は無自覚だったソフィアも、直に、足首に違和感を覚え、立つことも座ることもままならず、ブラッドに縋っていることしかできなくなった。
 乙女らしい恥じらいから抵抗はしたものの、否応なくクロスの上に座らされ、強引にドレスの裾をまくったブラッドが診察したところ、彼女のほっそりとした足首は、ぷくりと腫れていた。薄手のストッキングの上からでもはっきりとわかるくらいに。

 すぐに手当てをしなければと、窪地から一番近く、好奇の目のない狩猟小屋へ、反論する間もなく連れてこられて、今に至る。ゴールド・マナーの北西に広がる森へは、窪地から丘を越えればすぐにたどり着く。分かれ道までは戻らず、丘からそのまま森へ馬を進めれば、うっそうと木々が生える中を、人が漸く辿れるような細い小道が、奥へと続く。徒歩でいけば、地面をうねる木の根っこを避けて歩かねばならず、かなり厳しい道のりだが、馬に抱え上げられたソフィアは、ただ大人しく揺られていればよかった。
 馬の蹄が地面を蹴る振動が、鞍を伝って患部にビリビリとした刺激を与えてくるのが辛かったが、ソフィアが唇を噛んでいるのに気づいたブラッドが、ゆっくり穏やかに馬を進ませたので、我慢できないほどではなかった。

 ゴールド・マナーの広大な森には、狩りに出た人々がいざというとき困らないよう、小さな狩猟小屋が幾つか点在している。それらは伯爵家の使用人によって定期的に手入れされ、日保ちのする食料や飲み物、寝具なども取り替えられているので、大雪に閉じこめられたとしても、数日は持ちこたえられるように配慮されていた。
 狩猟時に怪我を負っても、屋敷に戻るまでに応急処置が施せるよう、薬草なども備えられているため、ブラッドは真っ先にこの小屋を目指したのだった。

 小屋の中は思ったよりも広く、薄暗かったが、蜘蛛の巣が張っているようなことはなく、ごく最近誰かが掃除をした跡があった。窓際に置かれた簡易ベッドに下ろされた時も、白い麻のシーツは石鹸の香りが微かに残っており、ソフィアは安心して身体を預けることができた。
 その時になってやっと、ソフィアは雨粒が窓ガラスを叩く音に気づいた。首を捻って背後の窓を確かめると、青々と茂った葉の向こうに、どんよりと鉛色の雲が垂れ込め、透明な粒がパラパラとガラスに当たるのが見えた。

 ブラッドは、ベッドに腰を下ろしたソフィアに背を向け、一旦外へ出て行ったが、すぐに水の入った桶を提げて戻ってきた。小屋の外、急な傾斜を下りると、テスト川が流れているのだという。
「今日はこんな天気だが、晴れたらとっておきの場所に連れて行こう」
 脇に抱えた薪を暖炉にくべ、ポケットからマッチを取り出して火をつけるまでを、きびきびと済ませて、ブラッドが口元を緩ませた。野外での活動を好むだけあって、こうした作業の手際は見事だ。

 器用な手元にいつの間にか見惚れていたことに気づき、どぎまぎしながら、ソフィアは首を傾げて、たらいと桶を持って目の前に移動してきたブラッドを見上げた。
「とっておきの場所が、あるのですか?」
「そう。この森の奥に、あまり人が立ち入らない場所があってね。そこだけぽっかりと、木が途切れていて・・・・・・川辺の、とても美しいところなんだ」
 桶からたらいに水を移し、それをソフィアの足元に置いて、ブラッドは膝をついた。

「ゴールド・マナーは、館の周りだけでももう十分に美しいのに――きゃあっ!」
 腕まくりをしたブラッドが、「失礼」と断ってから、ソフィアのドレスの裾を、膝辺りまで持ち上げたのだった。思わぬことに心臓は飛び跳ね、頭のてっぺんまで真っ赤になって、ソフィアはドレスのスカートを足元まで下ろそうとした。この時代、女性が男性に足首を見せることだけでもはしたないとされているのに、膝まで露出してしまうなんて、未婚の無垢な乙女であるソフィアには、大変恥ずかしくてたまらない出来事だ。しかも、目の前にいるのは心惹かれている男性なのだ。
 無論、ふくらはぎまではドロワーズ(下ばき)で覆われているし、ドレスのすぐ下にはペチコートを着けているから、素肌が直接覗くことはないけれど、普段はドロワーズを人目に晒すことさえない。ソフィアが動転するのも無理はなかった。なぜ憎からず想う殿方に、ペチコートごとスカートをまくられなければならないのだろうか。神様、一体どんな罪を犯したというのですか。

「ヒューズ卿!」
「手当てをしなくてはならないだろう?このままでは腫れが酷くなって、放っておくと悪化する一方だよ」
 手当てするためにこの小屋に来たんですよ、忘れたのかな。しれっといってのけるブラッドを、涙目で睨んだところで、全く効果はなかった。確かに、いつの間にかベッドの足元には薬草を揉んで作った湿布や包帯が置いてあるし、手当てをするというブラッドの主張を退ける有力な手がかりはない。

 けれどソフィアは花も恥らう年頃の、世間を知らない無垢な乙女なのだ。上体を伏せるように前かがみになって、必死でスカートとペチコートを下ろそうとする様子を見て、ブラッドは笑いながら降参した。肩を竦めて両手を離し、立ち上がってくるりと後ろを向く。
「わかったわかった、もうこれ以上は見ないから、自分でストッキングを脱いでくれないか?足首だけ出してくれたら、手当てをするから。準備ができたら呼んでくれないか」
 あんなに恥らわれては、この場は潔く引くしかない。彼女が必死に拒否する様は、不愉快どころか、可愛らしくて仕方なかった。頬を赤くして、瞳を潤ませて、困ったように見上げられれば、健全な男なら心を動かして当然だ。清純な花を手折ろうとしているような、困った錯覚に陥ってしまう。
 整った繊細な顔立ちの中で、何よりも強く訴えかけてくるのは、あの灰色がかった瞳だ。あれに見つめられると、ブラッドの中で、ざわざわと騒ぎ出すものがある。手当てをしようとしているだけで、下心はないのだといくら自分に言い聞かせても、身体が熱を帯びてくるのは抑えようがなかった。それを煽るように聞こえてくるのが、衣擦れの音だ。彼女がスカートを持ち上げ、ストッキングを脱いでいる様子を想像しそうになって、ブラッドは急いで下唇を噛みしめ、両手を拳にしてぎゅっと握った。

 小屋の中に聞こえてくるのは、衣擦れと、雨がガラスを叩く音と、2人の息遣いだけだ。身体の奥で燃え上がるものを沈めようと、皮膚に爪を食い込ませるほど強く拳を握ったブラッドに、遠慮がちな声がかかった。

「・・・・・・ヒューズ卿?もう大丈夫ですわ」
 ひとつ深く息を吐いてから、ブラッドはソフィアに向き直った。ほっそりとした手を胸の前で握り合わせて、俯き加減にソフィアは座っていた。長いまつ毛の下で、落ち着かない様子で視線を彷徨わせている。
 左足のストッキングは外されて、小さく畳まれ、ベッドの上に置かれてあった。スカートは下ろされたままだが、靴が片方だけ脱いであるから、白い肌が隠れているのがわかる。

 最大限の自制を働かせて、ブラッドは無表情を装い、再びソフィアの前に片膝をついた。下から顔を覗きこみ、できるだけさりげない口振りを心がける。
「ミス・エルディング、申し訳ないが、患部が見えるようにスカートを引き上げてくれないか?」
 今度は素直に頷いて、ソフィアは膝の辺りでスカートをつまみ、足首が見えるぎりぎりの位置まで引き上げた。その両耳は真っ赤だ。それに気づかないふりをして、ブラッドはタオルをたらいに浸して固く絞り、小さな足首を覆うようにして優しく押し当てた。ソフィアがびくりと身体を震わせたのが伝わってくる。彼女の足は小さくて、足の甲から裏までがタオルにすっぽりとくるまれてしまう。
「冷たいだろうが、少しだけ我慢してくれ。本当は水に直接足をつけたほうがいいのだが、それでは身体が冷えてしまうから」
 いたわりをこめて見つめると、彼女はおずおずと頷いた。タオルが邪魔しているため、直接ブラッドの手が素足に触れているわけではないが、両手で左足を包まれているのが、気になって仕方ないらしい。あまりに居心地が悪そうなので、ブラッドは次の手当てに移ることに決めた。

 タオルを取り去ると、ソフィアは全身で大きな息をひとつついたが、間髪入れずにブラッドが声をかけた。
「まだそのまま、スカートを上げていて。湿布を貼って、包帯を巻くからね」
「・・・はい」
 仕方なく頷いたソフィアだが、湿布を片手に持ったブラッドが、空いた方の手で患部の上をそっと掴むと、大きく身体を震わせた。がっしりした有能な手が、直接肌に触れているのだ。反射的に足を引っ込めようとしたが、しっかり固定されていて、このまま手当てが早く終わるのを待つしかなかった。
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