こころは霧の向こうに
「ウィル、最初のダンスはサラと踊ったんだろう?」
 栗色の髪を揺らして頷き、ウィルは人好きのする笑顔を浮かべた。
「馬車を降りてから一曲目のダンスが終わるまで、粗相がないようにきちんとお相手したよ。サラは練習通り上手くやったよ。最初の予定では、二曲目はアーサーと踊る予定だったんだけど、彼女、すごい人気でね。ダンスカードはすぐに埋まったから、私はお役御免というわけさ」
 両手を挙げておどけてみせるウィルに、ベッキーとアーサーが忍び笑いを漏らした。彼が口にすると、どんな言葉も嫌味に聞こえないから不思議だ。
 栗色の髪に茶色の瞳を持つウィルは、ユーモアを解する誠実な人柄で、他人を構えさせない雰囲気を持っている。いずれはレイモンド侯爵家を継ぐ跡取りとして、常に分別と責任を説かれ、重圧のせいか、寡黙で厳しい表情ばかりしていたアーサーの心をほぐし、すぐに打ち解けて無二の親友となったウィル。交友関係も広く、彼の人脈は、ブラッドがフォード伯爵家を継いでから事業を成功させる上で、非常に役立った。彼が兄弟に与えた影響は大きいと、ブラッドは思っている。大切な妹のエスコート役を任せられるのも、彼を信頼すればこそである。
 ウィル自身は、アーサー同様に、若くして伯爵家を継いでいる。人好きのする性質ではあるが、若い伯爵としての彼は尊敬を受けており、普通ならば、ひよっこ共が敵う相手ではない。
 ヒューズ一家の信頼厚いエスコート役の騎士が退散を決め込むとは、よほど多くの若者がサラの相手を希望したのだろう。
 実際、兄の贔屓目を差し引いても、サラは美しい娘だ。鳶色の真っ直ぐな髪に、ブラッドそっくりの濃い青色の瞳は、どちらも母から受け継いだものだ。姿も兄たちに似てすらりとしており、やや細身ではあるが、社交界に既にデビューしている娘たちには決して劣らない。

 父親は不幸な事故で亡くなっているとはいえ、祖父はレイモンド侯爵、いずれその侯爵を継ぐ長兄はバリー伯爵、次兄はフォード伯爵という爵位を持つ。イギリスでも名門貴族の一つであるヒューズ家の一人娘で、兄たちは順調に領地を経営し、資産を増やしていると評判なのだ。持参金目当てのけしからん若者もいるだろう。無論、そのような輩は兄二人で叩き潰してやるつもりだが。

「で、兄さんの出番を奪っていった勇気のあるヤツは、どこの誰だ?」
「キンバリーだよ。私たちのところに真っ先に来て、申し込みをしてたな」
 ちょうど二曲目の今は、ダンスの輪のどこかで、ブラッドの学友のキンバリー卿がサラのパートナーを務めていることになる。キンバリー卿は、子爵家の長男で、家柄としては問題ない。しかし、本人に悪気はないのだが、少々軽薄な性格だ。その彼に妹のパートナー役を奪われたとあっては、アーサーが不機嫌になるのも仕方あるまい。

「お気の毒に」
 兄に呟くと、しかめっ面が返ってきた。
「言っておくが、お前の名前を書く余裕もなかったぞ。私が踊れないんだ、お前だってサラと踊るのは無理だ」
「そりゃ残念だ」
 商用が長引く場合に備えて、念のためアーサーとウィルには、サラのダンスカードにブラッドの名前も書き込んでおくよう頼んであった。特に曲を決めたわけではなく、後半のダンスなら何でもいいからというでたらめな指定で。最初のダンスのパートナーとなっておいて遅刻してしまうと、かわいそうにサラは壁の花ということになってしまう。
 ご婦人方はダンスカードを手に持ち、パートナーを務めたい男性は、そこに名前を書いていくのが決まりだ。一曲ごとに相手を変えるのが普通だから、ダンスカードがいっぱいになるということは、全曲それぞれに相手役が決まったということだ。
 妹の晴れの舞台でパートナーとなれないのは残念だったが、身体に漂う気だるさを思うと、休息できる方が今は有難かった。

(そうなると今夜は暇ってことだな)
 後でウィルを誘って、ビリヤード室に行ってみるのもいいかもしれない。誰かしら顔なじみがいるだろう。ぼんやりと思い巡らせたところで、ふと、先ほどの公爵夫人の台詞がブラッドの頭の中に甦ってきた。
「そういえば、久しぶりにロンドンに出てきた、古い知り合いって誰のことだ・・・?」
 何気なく漏らした呟きに、兄夫婦が素早く視線を交わしたのを、ブラッドは見逃さなかった。アーサーとベッキーには、心当たりがあるらしい。
「二人は知ってるのか?」
 確認すると、アーサーは視線を逸らし、ベッキーは果敢にも、笑顔で取り繕おうとした。
「いいえ、どなたのことだったのかしらね」
 いつもは恐れ気もなく真っ直ぐ見返してくる彼女だが、緑の眼差しはどこか宙を泳いでいる。アーサーは、会場のあらぬ方向を熱心に見つめていて、弟と視線を合わせようとはしない。もう一押しすれば吐くな、と当たりをつけて、ブラッドは敢えて義姉の名前をきちんと呼んだ。今度はやや強めに。

「レベッカ」

 こうなるとベッキーは弱い。困ったようにブラッドを見上げて、渋々口を開いた。
「公爵夫人が仰った、おばあ様と共通のご友人というのは、スタンレー子爵夫人のことよ。子爵夫人は、今夜、一人のご婦人を連れてきてらっしゃるの」

 スタンレー子爵夫人。

 その名前が、心の奥底に封じ込めた記憶を、ぐらりと揺らした。何かがブラッドの頭の中で、警鐘を鳴らす。続く言葉を紡ぐベッキーの口の動きを、ブラッドは怖れを持って見守った。
「久しぶりにロンドンにいらしたのは、その方よ。今はリンズウッド伯爵夫人とおっしゃるの・・・・・・未亡人ですけどね。元は、ソフィア・エルディングというお名前で、アトレー男爵のご令嬢だった方よ」

 リンズウッド伯爵夫人。

 この数年、決して触れないように厳重に封印してきた記憶の鍵穴に、確かに鍵がおさまり、ゆっくりと回された。

 ソフィア・エルディング。アトレー男爵令嬢。

 鍵穴がカチリと開いた。途端に飛び出してくる記憶の断片は、まだあまりにも生々しくて、正視できるようなものではなかった。けれど、一度溢れ出した想い出は、とどまることなくブラッドの脳裏を通り抜けていく。

「一度、我が家のハウスパーティーにもご招待した方だったわね」

 レベッカの言葉が、どこか遠いところから聞こえてきた。ホールに流れているはずのオーケストラが奏でる音楽も、どこかへ消えていた。

「ほら」

 彼女の手が上がる。手袋に包まれた細い手には、扇が握られていた。閉じたままの扇が、このホールのどこか一点を確かに指し示した。

「あそこよ」

 眉間に皺を寄せて探るようにこちらを見ているアーサーも、心配そうに見つめてくるウィルも、ブラッドの視界には入っていなかった。
 のろのろと振り向いて、扇が示す場所を探す。色とりどりに着飾った人々も、ただのモノクロにしかブラッドの目には映らない。音もなく、白と黒しかない寒々とした世界の中で、ただ一人、お目当ての人物だけが、生き生きとした色彩を伴って飛び込んできた。記憶に散らばる面影と、何ら変わらない姿のままで。

 ソフィア。

 甘い疼きと、血を流し続ける痛みを伴うその名を、心の中で、ブラッドは口にした。
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