こころは霧の向こうに
慣れた手つきで湿布が患部に押し当てられ、足を固定したままの手を上手く使って、くるくると慎重に包帯が巻かれていく。きつすぎず緩すぎず、患部を固定する役割は最低限果たすように、ブラッドはたちまち巻き終えてしまった。
足を固定していた手を、踵の下まで滑らせて、ブラッドが手当ての具合を確認しているのを見て、やっとこれで恥ずかしさから解放されると、ソフィアは秘かに胸を撫で下ろした。
が、十分に点検する間があったと思うのに、彼の手はなかなか離れない。不審に思ったソフィアが、足元を覗き込んでいるブラッドの表情を窺おうとした時、ぞくりとした快感が全身を貫いて、思わず息を止めた。
踵を手のひらで支えたまま、彼の長い指が、くるぶしの辺りをゆっくりと撫でている。肌に触れるか触れないかギリギリのところを動く指は、初めて味わう切なさを、身体の奥から呼び起こしていく。
「――っ」
声にならない声が、微かに開いたソフィアの唇から零れた。いつの間にかもう片方の手も素肌に近づき、くるぶしばかりでなく、足の甲や爪までが、羽毛で撫でられたような感触に包まれていく。
両目を瞑り、スカートを持つ両手に力をこめて、ソフィアは歯を食いしばって、足先から上ってくる刺激を何とか堪えようとした。だが、そうしたソフィアの抵抗を、ブラッドは一瞬のうちにあっけなく取り去ってしまう。それまで足元を動いていた手が、脛とふくらはぎを上ってスカートの奥まで差し入れられると、目を瞑ってなどいられなかった。ドロワーズ越しとはいえ、膝に円を描くように撫でられると、腰の奥がジンと痺れた。
「ヒューズ卿っ」
固まったような喉から漸く声を絞り出し、だめですと続けようとした台詞が、口にされることはなかった。更に上へ辿ろうとする指の動きから逃げるように、唐突にのけぞったのがいけなかった。
重心が不安定になり、傾いだ身体を、力強い腕が抱きとめる。後方へ逸らした上体が、振り子のように反対方向へ振れて、広い胸に飛び込む形になってしまった。
頬をブラッドのベストに押付ける格好になって、ソフィアは息を呑んだが、じかに伝わってくるブラッドの鼓動も、速くなっている。彼の体温が空気の膜のようにソフィアを包み、微かに汗とハンガリー水の混じった匂いがした。
ベッドから転げ落ちそうになったソフィアを、片膝立ちのブラッドが受け止めた体勢のまま、2人は暫く固まったように動けなかった。
やがて、ブラッドの声が上から降ってきたが、そこには隠しきれない緊張が滲んでいた。
「大丈夫ですか?」
「・・・・・・ええ」
辛うじて声を出すと、ブラッドがゆっくりと両腕を伸ばし、ソフィアの身体を起こしてくれた。急に寒気を感じ、彼の胸の温もりをもっと味わいたいと思う自分に気づいて、ソフィアは頬を染めた。みだらで恥ずかしいことと思われたのだ。
自分から男性の胸に飛び込む格好になってしまって、はしたない娘だと呆れられたのではないだろうか。心配になってブラッドをそっと見上げると、真っ青な双眸に射抜かれ、何も考えられなくなってしまった。吸い込まれそうな深い青さの中に、切実に訴えかける光と、紛れもない欲望の光が、揺らめいている。
「・・・・・・っ」
固まっていたソフィアに影が被さり、そっと唇を塞がれた。衝撃に目を瞠ったソフィアだが、ついばむようなキスを何度も唇に落とされるうちに、抵抗を忘れて瞼を閉じた。大きな両手が頬に優しく添えられ、肌と肌が触れているところから、心地よい温もりがじわりと身体の内側に広がっていく。
最初は軽く触れるだけだったキスが、ソフィアが力を抜くと、深いものに変わった。口腔を絡め取るように動く舌を、ソフィアが素直に受け入れると、ブラッドの片手はうなじに添えられ、もう一方の手は腰をぐいと引き寄せて、ソフィアを味わい尽くそうとしている。熱い感触は、ソフィアの下腹部に切ない疼きを呼び起こし、どうしていいかわからなくなった彼女は、誘導されるままにブラッドの首に両腕を回して縋りついた。
官能的なキスが続く間も、腰やわき腹、首筋をそっと撫でられ、こらえ切れない喘ぎがソフィアの喉から漏れた。ゆっくりと円を描くように胸元を撫でられた時には、頭の中が痺れて、無我夢中でブラッドにしがみついていることしかできなかった。
「ソフィア」
バリトンの声に耳元で名前を囁かれ、ソフィアは漸く自分がどういう状況にあるかを認識した。官能の味に夢中になっている間に、片方だけ履いたままだった靴も脱がされて、ベッドに全身を横たえていた。顔の両脇にブラッドが手をつき、両膝でソフィアの脚を挟む形で上から覆いかぶさっている。知らないうちに背中のボタンが外され、ぴったりと胴を締め付けているコルセットの紐も、緩められていた。
自分がどんな格好をしているかに気づくと、たちまち恥ずかしさが押し寄せてくる。身体を捩らせようと身動きしたとき、再び彼が名前を呼んだ。
「ソフィア」
動揺を鎮めようとするかのように、穏やかなキスが降ってくる。唇が離れたとき、ソフィアの身体からは力が抜け、ブラッドを見つめることしかできなかった。
間近で覗き込んでくるサファイアの宝石に、恍惚としたソフィアの顔が映っている。大きな手がそっと頬を撫で、じっと見つめながら、ブラッドは溢れ出る想いを口にした。
「君が欲しくてたまらない。君は私の、唯一の人だ」
思いがけない台詞は、ソフィアの瞼と琴線を震わせた。真摯な想いは煌く輝石となって、心の中にゆっくりと沈んでいく。すると、えもいわれぬ歓喜と悲しみがこみ上げてきて、瞼が熱くなる。
ハウスパーティーに招かれている令嬢たちに教えられるまでもなく、ブラッドとは身分が違うことを、ソフィアはきちんとわきまえていた。ソフィアは男爵令嬢だが、これは純粋な貴族の中でも1番下の爵位だ。対するブラッドは2つ上爵位であるの伯爵家の子息だが、バリー伯爵家はもともと、レイモンド侯爵家の持つ称号の1つだ。侯爵位は、王族、公爵に継ぐ高位の爵位で、英国でも最上位の貴族に属すのである。身分社会である上流階級においては、この差は天と地ほども大きかった。
生まれて初めて心から惹かれた異性に、想いを向けられた喜びも大きかったが、それ以上に、決して認められない恋への悲しみは大きかった。
だが、そんなソフィアの心中を見透かしたように、ブラッドは勇気付けるように微笑んだ。
「レベッカの出産が終わったら、兄に許しを貰うつもりだ。私は跡取りではないし、気楽な身分だから、反対されることはないよ。それに反対されても、君との関係は絶対に認めさせるつもりだ。だからソフィア――」
真っ青の瞳が熱い炎となって、ソフィアの中に巣食う不安を焼き尽くしていく。
「君の全てを、私にくれないか?ただ1人の女性として、心から大切にする。大丈夫、私は家を継がないけれど、伯爵家の事業は手伝っているから、暮らしに困ることはないよ。苦労はさせない。だから私を信じて欲しい」
懇願するように見つめられ、何かいわなければとソフィアは唇を震わせたが、言葉が出てくる代わりに、頬を涙が伝っていった。ブラッドの柔らかな唇が、それをすくい取ってくれる。
困ったように眉尻を下げて微笑み、ブラッドは腕の中のソフィアを覗き込んだ。
「これは、喜びの涙だと思っていいのかな?」
「――ええ」
囁くような返事よりも、頬を濡らしながらも浮かべた極上の笑顔が、何よりも雄弁にソフィアの気持ちを物語っていた。途端に、彼の唇で口を塞がれてしまう。口の中を探るようなキスに、ソフィアは全てを委ね、伸び上がるように唇を押付けて応えた。
彼の唇が首筋や頬に注がれる間に、コルセットの紐はすっかり緩められ、2人の間を妨げるドレスと共に取り去られてしまう。ソフィアも進んで協力し、同じように衣服を脱ぎ去ったブラッドの肌とじかに触れ合える喜びに、全身を震わせた。
貴族階級に属する者にとっては、何よりも大きい身分の壁を、ブラッドはものともしなかった。越えると誓ってくれた。彼のその真心に対して、ソフィアが差し出せるのは、素のままの自分しかない。彼が欲しがる自分の全てを、彼が求める限り、何度でも差し出すつもりだった。むき出しの心を、重ね合わせた肌から、触れ合わせた唇から、何度でも伝えることしかできないから。
初めて男性に素肌を晒して、ソフィアは緊張に身体を竦ませたものの、ブラッドが望む通りに全てを差し出した。彼の細やかな、親密な愛撫が、身体のあちこちに熱を呼び起こし、リラックスさせていくのに任せた。
「ブラッド」
彼の情熱を受け止めたとき、息も絶え絶えなソフィアの唇から零れたのは、その名前だった。それを聞いて、ブラッドは束の間、動きを止めた。
「ああ・・・・・・ブラッド」
ソフィアはもう1度、切なそうに囁いた。
上流階級では、夫婦間でさえ、ミセスやミスターをつけた苗字で呼びあうのが礼儀に適っているとされている。ファーストネームで呼びあうのは、真実、親密な関係になったときだけ。身分も礼儀もかなぐり捨てて、愛しい相手に素直に向かっていくときに、初めて相手のファーストネームを口にする。
ソフィアが、ブラッドへ心を預けきった瞬間だった。愛しい人の唇から零れる自分の名に、ブラッドは、激しい感動が身体の底から突き上げてくるのを感じた。身分差を越えるという覚悟を示した自分に、彼女も遠慮や恥じらいを全て捨てて、心を寄り添わせてくれたのだ。
「ソフィア・・・っ」
身体の奥から愛しさが溢れてきて、ブラッドはひたすら、ソフィアへと想いのたけを注ぎ込んだ。2人の心は溶け出し、1つに重なって――無垢な愛を交わした相手とだけ辿りつける楽園へ、手と手を取り合って足を踏み入れ、真実の果実を手に入れたのだった。
足を固定していた手を、踵の下まで滑らせて、ブラッドが手当ての具合を確認しているのを見て、やっとこれで恥ずかしさから解放されると、ソフィアは秘かに胸を撫で下ろした。
が、十分に点検する間があったと思うのに、彼の手はなかなか離れない。不審に思ったソフィアが、足元を覗き込んでいるブラッドの表情を窺おうとした時、ぞくりとした快感が全身を貫いて、思わず息を止めた。
踵を手のひらで支えたまま、彼の長い指が、くるぶしの辺りをゆっくりと撫でている。肌に触れるか触れないかギリギリのところを動く指は、初めて味わう切なさを、身体の奥から呼び起こしていく。
「――っ」
声にならない声が、微かに開いたソフィアの唇から零れた。いつの間にかもう片方の手も素肌に近づき、くるぶしばかりでなく、足の甲や爪までが、羽毛で撫でられたような感触に包まれていく。
両目を瞑り、スカートを持つ両手に力をこめて、ソフィアは歯を食いしばって、足先から上ってくる刺激を何とか堪えようとした。だが、そうしたソフィアの抵抗を、ブラッドは一瞬のうちにあっけなく取り去ってしまう。それまで足元を動いていた手が、脛とふくらはぎを上ってスカートの奥まで差し入れられると、目を瞑ってなどいられなかった。ドロワーズ越しとはいえ、膝に円を描くように撫でられると、腰の奥がジンと痺れた。
「ヒューズ卿っ」
固まったような喉から漸く声を絞り出し、だめですと続けようとした台詞が、口にされることはなかった。更に上へ辿ろうとする指の動きから逃げるように、唐突にのけぞったのがいけなかった。
重心が不安定になり、傾いだ身体を、力強い腕が抱きとめる。後方へ逸らした上体が、振り子のように反対方向へ振れて、広い胸に飛び込む形になってしまった。
頬をブラッドのベストに押付ける格好になって、ソフィアは息を呑んだが、じかに伝わってくるブラッドの鼓動も、速くなっている。彼の体温が空気の膜のようにソフィアを包み、微かに汗とハンガリー水の混じった匂いがした。
ベッドから転げ落ちそうになったソフィアを、片膝立ちのブラッドが受け止めた体勢のまま、2人は暫く固まったように動けなかった。
やがて、ブラッドの声が上から降ってきたが、そこには隠しきれない緊張が滲んでいた。
「大丈夫ですか?」
「・・・・・・ええ」
辛うじて声を出すと、ブラッドがゆっくりと両腕を伸ばし、ソフィアの身体を起こしてくれた。急に寒気を感じ、彼の胸の温もりをもっと味わいたいと思う自分に気づいて、ソフィアは頬を染めた。みだらで恥ずかしいことと思われたのだ。
自分から男性の胸に飛び込む格好になってしまって、はしたない娘だと呆れられたのではないだろうか。心配になってブラッドをそっと見上げると、真っ青な双眸に射抜かれ、何も考えられなくなってしまった。吸い込まれそうな深い青さの中に、切実に訴えかける光と、紛れもない欲望の光が、揺らめいている。
「・・・・・・っ」
固まっていたソフィアに影が被さり、そっと唇を塞がれた。衝撃に目を瞠ったソフィアだが、ついばむようなキスを何度も唇に落とされるうちに、抵抗を忘れて瞼を閉じた。大きな両手が頬に優しく添えられ、肌と肌が触れているところから、心地よい温もりがじわりと身体の内側に広がっていく。
最初は軽く触れるだけだったキスが、ソフィアが力を抜くと、深いものに変わった。口腔を絡め取るように動く舌を、ソフィアが素直に受け入れると、ブラッドの片手はうなじに添えられ、もう一方の手は腰をぐいと引き寄せて、ソフィアを味わい尽くそうとしている。熱い感触は、ソフィアの下腹部に切ない疼きを呼び起こし、どうしていいかわからなくなった彼女は、誘導されるままにブラッドの首に両腕を回して縋りついた。
官能的なキスが続く間も、腰やわき腹、首筋をそっと撫でられ、こらえ切れない喘ぎがソフィアの喉から漏れた。ゆっくりと円を描くように胸元を撫でられた時には、頭の中が痺れて、無我夢中でブラッドにしがみついていることしかできなかった。
「ソフィア」
バリトンの声に耳元で名前を囁かれ、ソフィアは漸く自分がどういう状況にあるかを認識した。官能の味に夢中になっている間に、片方だけ履いたままだった靴も脱がされて、ベッドに全身を横たえていた。顔の両脇にブラッドが手をつき、両膝でソフィアの脚を挟む形で上から覆いかぶさっている。知らないうちに背中のボタンが外され、ぴったりと胴を締め付けているコルセットの紐も、緩められていた。
自分がどんな格好をしているかに気づくと、たちまち恥ずかしさが押し寄せてくる。身体を捩らせようと身動きしたとき、再び彼が名前を呼んだ。
「ソフィア」
動揺を鎮めようとするかのように、穏やかなキスが降ってくる。唇が離れたとき、ソフィアの身体からは力が抜け、ブラッドを見つめることしかできなかった。
間近で覗き込んでくるサファイアの宝石に、恍惚としたソフィアの顔が映っている。大きな手がそっと頬を撫で、じっと見つめながら、ブラッドは溢れ出る想いを口にした。
「君が欲しくてたまらない。君は私の、唯一の人だ」
思いがけない台詞は、ソフィアの瞼と琴線を震わせた。真摯な想いは煌く輝石となって、心の中にゆっくりと沈んでいく。すると、えもいわれぬ歓喜と悲しみがこみ上げてきて、瞼が熱くなる。
ハウスパーティーに招かれている令嬢たちに教えられるまでもなく、ブラッドとは身分が違うことを、ソフィアはきちんとわきまえていた。ソフィアは男爵令嬢だが、これは純粋な貴族の中でも1番下の爵位だ。対するブラッドは2つ上爵位であるの伯爵家の子息だが、バリー伯爵家はもともと、レイモンド侯爵家の持つ称号の1つだ。侯爵位は、王族、公爵に継ぐ高位の爵位で、英国でも最上位の貴族に属すのである。身分社会である上流階級においては、この差は天と地ほども大きかった。
生まれて初めて心から惹かれた異性に、想いを向けられた喜びも大きかったが、それ以上に、決して認められない恋への悲しみは大きかった。
だが、そんなソフィアの心中を見透かしたように、ブラッドは勇気付けるように微笑んだ。
「レベッカの出産が終わったら、兄に許しを貰うつもりだ。私は跡取りではないし、気楽な身分だから、反対されることはないよ。それに反対されても、君との関係は絶対に認めさせるつもりだ。だからソフィア――」
真っ青の瞳が熱い炎となって、ソフィアの中に巣食う不安を焼き尽くしていく。
「君の全てを、私にくれないか?ただ1人の女性として、心から大切にする。大丈夫、私は家を継がないけれど、伯爵家の事業は手伝っているから、暮らしに困ることはないよ。苦労はさせない。だから私を信じて欲しい」
懇願するように見つめられ、何かいわなければとソフィアは唇を震わせたが、言葉が出てくる代わりに、頬を涙が伝っていった。ブラッドの柔らかな唇が、それをすくい取ってくれる。
困ったように眉尻を下げて微笑み、ブラッドは腕の中のソフィアを覗き込んだ。
「これは、喜びの涙だと思っていいのかな?」
「――ええ」
囁くような返事よりも、頬を濡らしながらも浮かべた極上の笑顔が、何よりも雄弁にソフィアの気持ちを物語っていた。途端に、彼の唇で口を塞がれてしまう。口の中を探るようなキスに、ソフィアは全てを委ね、伸び上がるように唇を押付けて応えた。
彼の唇が首筋や頬に注がれる間に、コルセットの紐はすっかり緩められ、2人の間を妨げるドレスと共に取り去られてしまう。ソフィアも進んで協力し、同じように衣服を脱ぎ去ったブラッドの肌とじかに触れ合える喜びに、全身を震わせた。
貴族階級に属する者にとっては、何よりも大きい身分の壁を、ブラッドはものともしなかった。越えると誓ってくれた。彼のその真心に対して、ソフィアが差し出せるのは、素のままの自分しかない。彼が欲しがる自分の全てを、彼が求める限り、何度でも差し出すつもりだった。むき出しの心を、重ね合わせた肌から、触れ合わせた唇から、何度でも伝えることしかできないから。
初めて男性に素肌を晒して、ソフィアは緊張に身体を竦ませたものの、ブラッドが望む通りに全てを差し出した。彼の細やかな、親密な愛撫が、身体のあちこちに熱を呼び起こし、リラックスさせていくのに任せた。
「ブラッド」
彼の情熱を受け止めたとき、息も絶え絶えなソフィアの唇から零れたのは、その名前だった。それを聞いて、ブラッドは束の間、動きを止めた。
「ああ・・・・・・ブラッド」
ソフィアはもう1度、切なそうに囁いた。
上流階級では、夫婦間でさえ、ミセスやミスターをつけた苗字で呼びあうのが礼儀に適っているとされている。ファーストネームで呼びあうのは、真実、親密な関係になったときだけ。身分も礼儀もかなぐり捨てて、愛しい相手に素直に向かっていくときに、初めて相手のファーストネームを口にする。
ソフィアが、ブラッドへ心を預けきった瞬間だった。愛しい人の唇から零れる自分の名に、ブラッドは、激しい感動が身体の底から突き上げてくるのを感じた。身分差を越えるという覚悟を示した自分に、彼女も遠慮や恥じらいを全て捨てて、心を寄り添わせてくれたのだ。
「ソフィア・・・っ」
身体の奥から愛しさが溢れてきて、ブラッドはひたすら、ソフィアへと想いのたけを注ぎ込んだ。2人の心は溶け出し、1つに重なって――無垢な愛を交わした相手とだけ辿りつける楽園へ、手と手を取り合って足を踏み入れ、真実の果実を手に入れたのだった。