こころは霧の向こうに

6

 ソフィアは、期待に逸る胸を押さえて、朝食室への扉を開けた。そっと中に入ると、扉の近くに座っていた幾人かの視線に晒され、足を止めそうになる。
 心に思うところがあると、必要以上に人目を気にするのが人間の性分だ。
(大丈夫。いつも通り、堂々としていればいいのよ)
 ブラッドとふたりきりで過ごした狩猟小屋での時間。幸せなひとときを思うと、自然に顔が緩んでしまう。まだブラッドからバリー伯爵にも話をしていないのだから、公の場で恋人として振る舞うのは遠慮しなければならない。ついつい頬が緩んでしまうソフィアを、他のゲストが不審に思うかもしれない。

 ふたりの胸にだけおさめられた甘い秘密のためにも、平静に振る舞うのだと自分を励まして、広々とした朝食室を見渡すと、窓際のテーブルに座るエミリー大叔母の姿が見えた。年配のご婦人と一緒に、熱心に話し込んでいる。
 同じ年頃のご令嬢たちは、レディ・アイリーンを中心に行動していて、ソフィアには声をかけようともしない。自然に、ソフィアの足はエミリー大叔母のテーブルへと向かった。

 ゴールド・マナーの1階にある朝食室は、庭に面したテラスにすぐ出られるようにフレンチドアが付けられているが、朝の冷気を避けて、皆室内で食事をとっている。カーテンを開けてあるせいで、大きめに取られた窓から差し込む明るい光が室内を照らしている。
 宿泊しているゲストは、三々五々朝食室にやってきて、思い思いにテーブルに座り、ビュッフェ形式の食事を楽しむ。ソフィアがやってきたときには、テーブルは7割方埋まっていたが、ブラッドの姿はなかった。いつものように、家族専用の朝食室で食事をとっているのかもしれない。
 そのことに、ソフィアはがっかりすると同時に、ほっとしてもいた。

 足首を怪我してから、2日目。
 怪我をした当日の夕刻から今朝まで、ソフィアは自分に割り当てられた部屋に籠もり、安静を余儀なくされていた。じっとしていると時間が経つのが遅く感じられてならない。メイドから執事経由で伯爵夫人の許可を得て、彼女の蔵書を図書室から借り、日がな一日ベッドの中で読んだり、描きかけのままだった僧院のスケッチを仕上げたりして、退屈を紛らわした。
 昨夜は足首の腫れもだいぶ引いたと、大叔母の許可をもらい、バスタブを部屋に持ち込ませて、メイドふたりがかりで入浴させてもらった。これでかなりさっぱりして、気持ちよく布団に入って休めたのだった。
 昼間見舞いにいくよと宣言していたブラッドは、兄の伯爵から急な呼び出しが入ったとかで、見舞いの花を届けさせたきりで、姿を見ることはできなかった。
 想いが通じ合った直後だけに、顔を合わせることができないのは寂しかったけれど、ソフィアは努めて、彼の置かれている状況を理解しようとしている。

 貴族の次男坊は部屋住みの気楽な身の上だというのが定説だが、バリー伯爵家の場合は違う。バリー伯爵を継いだアーサーもまだ若い上、伯爵夫人として陰に日向に彼を支える妻のベッキーは、臨月間近で自由に動けない身体だ。そうなると、自由に動けるブラッドに、様々なフォローが回ってくる。
 暫く前にも、ブラッドは言っていた。ロンドンにいる祖父、レイモンド侯爵から呼び出しがあることもしょっちゅうで、伯爵家の仕事だけでなく、社会勉強のために侯爵家の仕事も手伝わされているのだと。
 ゴールド・マナーで出産に備えるベッキーの側に控えて仕事をこなすアーサーの代わりに、ブラッドがロンドンの祖父のもとへ出向くことも多いのだそうだ。

 忙しく、気の休まるときがない日々を送る伯爵家の兄弟に、自分のことで迷惑をかけることだけはしたくないと、ソフィアは秘かに決めていた。
 唯一の人、と言ってくれた、彼のその気持ちに応えたい。身分の差をひと跳びに越えて、ソフィアの側に寄り添ってくれた彼のために、この身を投げ出して尽くしたいと、狩猟小屋からの帰途、馬に揺られながら固く思い定めていた。

 オルソープ公爵家の舞踏会で出逢ってから、共に過ごした時間はまだ短いが、ふたりの心を結びつけるには、十分な密度だった。
 幼い頃から父の愛情に飢え、温かな家庭に憧れていたソフィアだけに、相手を思いやる気持ちは強い。ブラッドにとって、ソフィアがただ1人の女性であるように、ソフィアにとってブラッドは、ただ1人の男性なのだ。半身といえる相手のために、自分を捧げるのは当然だった。

 朝食室の中を、エミリー大叔母のもとへと歩いていく間にも、2、3のテーブルに座るご令嬢たちの意味ありげな視線が、見下すような笑みと共に、ソフィアの身体に突き刺さってくる。
 こちらを見ながらヒソヒソと囁きあい、笑い声をたてる者もいる。一昨日までのものよりも、いっそうあからさまになっているような気がする。
 しかしソフィアは、顎を上げて背中を伸ばしたまま、平静さを保ってテーブルの間を通り抜けた。アトレー男爵家に生まれたことを、恥じる気持ちはない。今はそれに加え、ブラッドに相応しい女性になりたいという気持ちが、ソフィアを支えている。

「おはよう、ソフィア。もうだいぶ具合はいいようね」
「おはようございます、大叔母様」
 テーブルでは、エミリー大叔母の明るい声が出迎えてくれた。にこりと笑い返し、続いて同席しているご婦人方にも朝の挨拶を送る。
 同年代のご令嬢から離れ、大叔母の隣に座ると、肩の力が抜けてほっとする。
 すぐにメイドが食事やお茶を運んできたが、新鮮なデザートなど、幾つかのメニューは、部屋の一隅に設けられたビュッフェテーブルから、各自が好きなだけ取り分けるようになっている。

 ひとまず運ばれてきた皿に手をつけはじめたソフィアに、ご婦人方は、怪我の具合はもういいのかと揃って声をかけてくれた。失礼にならないよう、それに答えながらソフィアが食事を続けていると、いつの間にか会話の主導権は大叔母に奪われていた。
「バリー伯爵はじめ、皆さんにご心配いただいて、とても申し訳なく、ありがたく思っておりますのよ」
 既に食事を終えたエミリー大叔母は、紅茶をスプーンでかき混ぜながら、大仰にため息をついた。品の良いご婦人が、そうでしょうとも、と頷いてみせる。
「デビューしたばかりの、大切なお嬢様ですからね。たいしたことはなくて、本当に幸運でしたよ」
「今日の午前中は、殿方が楽しみにしている釣りの催しがありますよ。これに回復が間に合って、良かったわね」
 口々に慰め顔で言葉をかけてくるご婦人たちを見回し、ソフィアは手を止めて尋ねてみた。
「皆様も参加されるのですか?」
「いえ、わたくしたちは、殿方についていって、側で眺めるだけですよ」
「ピクニックですよ。釣りをしない方は、お茶をしたりお花を摘んだりしてね」
「ほとんどの殿方が参加されるのですって」
 先を争って本日の行事を説明してくれるご婦人方を前に、ソフィアは少し考え込み、独り言のように呟いた。
「バリー伯爵や、ヒューズ卿も参加されるのかしら」
「伯爵は顔を出されるそうですよ」
「なんといっても、ホストですものね」
「でも、ヒューズ卿はね・・・・・・」
 歯切れの悪い物言いに、ソフィアは首を傾げた。
「ヒューズ卿は、どうなさったのですか?」

 重々しく口を開いたのは、それまで紅茶を口に運んでいたエミリー大叔母だった。カップをソーサーに戻し、肩を竦める。
「ヒューズ卿は、昨日急遽ロンドンへ発たれましたよ。レイモンド侯爵から、突然呼び出しがあったそうなの。用件が済み次第、すぐに戻ると仰っていたそうだけれどね」
「――そうですか」
 ブラッドはいない。
 その事実にショックを受けながらも、ソフィアは何とか声を絞り出した。弱弱しくはあったけれど、辛うじて微笑むこともできた。
「では、お見舞いをいただいたお礼は、伯爵に申し上げなくては」
 続けて機械的に台詞を口にしたけれど、それ以上落ち着いて食事を続けるのは難しかった。
「デザートを取ってきます」
 急いで言い訳をして、逃げるように席を立った。

 落ち着いて振る舞えと理性が囁く。だが、ブラッドの不在が心に落とした波紋は大きかった。
(せめて、ひと言声をかけてくれてもいいのに・・・)
 知らない間に消えるのはやめてほしい。全くもって、心臓に悪い。ソフィアに知らせるなど思いもしなかったのだろうか。
 憤慨する一方で、冷静に諭す自分もいる。
 突然の呼び出しに応じるため、ブラッドは慌しく発ったのだ。そのため、ソフィアに声をかける時間もなかったのだろう。そうでなければ、見舞いに行くと宣言していたのだし、きっと逢いにきてくれたはずだ。
(彼を信じなくて、どうするの)
 理屈をつけて納得しようとする気持ちと、彼に逢えなくて寂しい、逢いたいという気持ちが、ソフィアの中でぶつかり合っている。
(ブラッドに、他意はないのよ)
 心の中で強く言い切ってみたが、どこからかやってきたもやもやは、簡単には消えてくれない。

 頭を冷やそうと、デザートの果物が並ぶテーブルに目を向けるけれど、いつもなら食欲をそそる好物も、今はあまり魅力的に見えなかった。
 ぼんやりと果物を見つめていたソフィアの耳に、幾つかの話し声が飛び込んでくる。
「ヒューズ卿を誘惑しようとして、失敗したのよ。いい気味だわ」
「身分の差を思い知ったのではない?たいした家柄でもないのに、こんなところまでノコノコくるからいけないのよ」
 嘲りと侮蔑に満ちた、女性たちの声。
やけに近くから聞こえてくると、顔を上げると、すぐ隣のテーブルに並ぶデザートを取り分ける令嬢たちの姿があった。色とりどりのドレスを着た彼女たちは、いつもレディ・アイリーンの周りにいる顔ぶれだ。
 あちらもちらちらとソフィアを窺い、目が合っても逸らさずに、クスクスと笑い声をたてている。

 顔を顰めたくなるのを辛うじて堪え、ソフィアは彼女たちから視線を外した。不安にざわめきを立てているような今の精神状態では、至近距離で悪意を向けられて、冷静に振る舞うのは難しい。
 デザートに背を向けて、足早に立ち去ろうとしたソフィアの前に、立ちふさがる人影がある。ぶつかりそうになったのをすんでのところで立ち止まったソフィアに、挑戦的な微笑を向けているのは、レディ・アイリーンだった。

「ごきげんよう、ミス・エルディング」
「ごきげんよう、レディ・アイリーン」
 一番逢いたくない人物に出くわしてしまった。
 眉間に皺を寄せてしまったのを、顔を伏せてお辞儀をすることで誤魔化してから、ソフィアは渋々グラフトン伯爵令嬢に向き直った。こちらはさっさとこの場から立ち去りたいのだが、相手はそれを望んでいないようだ。
 レディ・アイリーンの茶色の瞳が、意地悪くきらりと光った。
「臥せっていらしたと聞いていたけれど、具合はもう良くなったのかしら?皆様心配していたのよ」
「おかげさまで、だいぶ回復しました」
 台詞とは裏腹に、口振りには全くもって、ソフィアを気遣う色はない。だが、身分の高い者から見舞いの言葉をかけられれば、頭を下げるしかなく、こちらも素っ気なく礼を返した。
 レディ・アイリーンの意図が、ソフィアを見舞うことにないのは、明白だ。
 ふたりの様子を離れて見守っていた取り巻きが、レディ・アイリーンの周りに集まり、口々にさえずり始める。
「でも、休めたのは良かったのではなくて?このような社交の場に、慣れてらっしゃらないでしょうから、さぞお疲れでしょう」
「あまりに場違いですものねえ。もういっそ、ロンドンに戻られてはいかが?」
 年若い令嬢たちが集まって笑いさざめいている様は、華やかで美しかったが、声に込められているのは、嘲笑だ。
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