こころは霧の向こうに
 足が竦んで動けないソフィアに、令嬢たちの声が追い討ちをかける。
「そうですわね。バリー伯爵もまだまだお若い方ですもの。経験豊富で誰でも一目置くような後ろ盾が、必要ですわ」
「それならばグラフトン伯爵は最適ですわね。伯爵家には男子の跡継ぎはいらっしゃらないし、いずれはレディ・アイリーンの婿君に、爵位を譲られるのでしょう?」
「そうね。わたくしは末娘ですから、お父様はずっと手元に置いておきたいのよ。そのために、将来のグラフトン伯爵に相応しい方を、長いこと探してらっしゃったの。ヒューズ卿なら不足はないわ。何といってもおじい様はあのレイモンド侯爵様だし、兄君は伯爵」
 声の調子からして、レディ・アイリーンはうっとりとした表情を浮かべているに違いない。それを煽るようなお追従が続く。
「グラフトン伯爵家も、バリー伯爵家も、名門ですもの。これ以上ない組み合わせですわね」
「バリー伯爵夫人よりもレディ・アイリーンのご実家の方が力もありますもの。いずれはレディ・アイリーンがレイモンド侯爵家の女主人としても、重きを成すでしょうね」
「アトレー男爵家なんて、爵位とは名前ばかり。雲泥の差ですわ」
「そうそう。ここに招待されたのも怪しいものだわ」
「バリー伯爵か、どなたか他の男性ゲストと、親密な関係なのかもしれないわよ」
「あら、愛人ということ?」
「そうね。ヒューズ卿のことも誘惑するぐらいですもの、大人しそうなふりをしても、きっと娼婦顔負けに違いないわ」
 甲高い会話は、次第に悪趣味な中傷となっていく。これ以上留まっている必要はない。
 無理やり足を動かして、ソフィアは扉の前からそっと立ち去った。背中越しに追いかけてくる笑い声も、もはや耳には入らない。

 娼婦同然と貶められたことよりも、自分に力がないことが、心に痛かった。貴族の娘として、レディ・アイリーンの方が多くを持っている。ブラッドの役に立ちたいと願っているのに、この両手に持てるものは何もないのだ。彼に差し出せるのは、心と身体だけ。
 彼の足手まといになりたくはない。けれど、今すぐ彼を諦められるほど、恋の炎は小さくはない。心を殺して彼の側を離れることが、自分にできるだろうか。
 唇を引き結び、足早に廊下を進むソフィアの頬を、一筋の涙が濡らす。ブラッドが家族を大切に思っていることは、彼の言動の端々から伝わってくる。ブラッドと、彼の家族にとって最善の将来を、壊すことはできない。ブラッドを失うかもしれないと考えるだけで、心は張り裂け、涙が止まらないけれど。
 自室に戻り、扉を閉めた途端、両膝から力が抜けていく。背中を扉に預けながら、ずるずるとその場に崩れ落ちると、堪えきれない嗚咽が漏れた。
 いずれは離れなくてはならないかもしれない。でももう少しだけ、ブラッドの側に居たい。真っ青な瞳を見つめていたい。
 そう願うことは、我が侭だろうか。
 ブラッドの手紙を両手で胸に押しつけて、天井を見上げた。零れ落ちる涙が視界を曇らせ、頬から首を伝って、ハイネックの襟元を濡らしていく。
 どんなに目を凝らしても、ぼんやりと滲んでしか映らない世界は、まるでブラッドとの将来を暗示しているように思えて、ソフィアは顔を上げたまま目を瞑った。逃げ場のない現実を突きつけられても、この恋を恥じることはしたくない。いつだって顔を上げていよう。何がどう変わっても、顔を上げ続けることが、ソフィアに許された意地であり、打開しようもない現実への唯一の抵抗だった。
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