こころは霧の向こうに
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 久しぶりの社交界は、相変わらず華やかで、うんざりするほど軽薄だった。外はまだまだ凍えるような寒さだというのに、ホールには熱気が篭り、ご婦人方が身につけた香水や、紳士方が身につけたポマードの臭いが、むっと立ち込めている。
 ヨークシャーの田舎の空気に慣れた身には、どんなブランドの香水も、無闇に嗅覚を刺激する異臭でしかない。

 少しでも気を抜くと零れてしまいそうになるため息を堪え、ソフィア・ポートマンは、扇で口元を隠して、熱心に話しかけてくる中年の紳士に、にっこりと微笑んだ。早く外に出て新鮮な空気を吸いたいが、ちょうど2曲目のダンスが終わったところだ。アンが戻ってくれば、約束通り3曲目のダンスにはソフィアも出なければならない。

「お誘いは光栄なのですが、わたくしは付き添いに過ぎませんので・・・・・・ミス・ウェルズを差し置いて、わたくしが踊るわけにはまいりません」

 今宵、一体何度この台詞を口にしただろう。そろそろうんざりしてくるが、それなりに効果がある台詞なので、使わないわけにはいかない。案の定、人の良さそうなグレシャム卿は、落胆しながらも頷いてくれた。
「仕方ありませんね・・・・・・付き添い役の面目を潰すわけにはいきません。ミス・ウェルズと踊ってから出直すとしましょう」
「恐れ入ります、グレシャム卿」

 横の椅子に座っている大叔母が眉を顰めていようが、構わない。ソフィアが申し訳なさそうに微笑みながら頭を下げると、グレシャム卿の顔つきも明るくなった。エミリー大叔母が、すかさずフォローを入れる。
「本当にこの子は義理堅くて・・・・・・控え目な性質ですのよ、グレシャム卿」

 余計なことを言わないで欲しいと口を挟みたいところだが、新しい人生を楽しんで欲しいという大叔母の心遣いを無碍にするわけにもいかない。またため息を堪えたところで、頬を上気させた娘が近づいてくるのが目に入った。瞳をきらきらと輝かせた彼女を見て、ソフィアから自然な微笑が零れた。
「楽しんだようね、アン」
「ええ、レディ・リンズウッド。ハガード大尉はとてもダンスがお上手だったわ」

 リンズウッド伯爵家の隣人で、今シーズンが社交界デビューとなるアン・ウェルズは、内気な彼女にしては珍しく、興奮を抑えきれない様子で口を開いた。ダンスで身体を動かしたせいか、それとも会場の熱気にあてられたのか、頬がピンクに染まっている。

 癇癪持ちの父親を怖れ、家ではビクビクしているアンが、17歳という年齢に相応しく、今宵のパーティーを伸び伸びと楽しんでいるのが嬉しくて、ソフィアの微笑みは、彼女を楽しませてくれた青年へも向けられた。
「素晴らしいダンスでしたわ」
 アンの不在をいいことに群がってくる紳士たちを捌くのに忙しかったが、ちらりと見た限り、ポール・ハガード大尉は見事にアンをリードしてくれていた。賞賛を込めて見上げると、まだ20代半ばといった大尉は、息を乱しもしていない。大きめの口に、ゆったりと笑いが浮かんだ。

「ミス・ウェルズもお上手でしたよ。これがデビューとは思えないくらいです」
 大尉の言葉に、アンが頬を赤らめて俯いた。大尉は中肉中背だが、軍人なだけあって、がっしりした身体つきをしている。女性にしては長身なアンを、危なげなく支えていたのはさすがだ。

(デイヴィーは気の毒だったわね・・・・・・)

 会場へのエスコートと1曲目のダンスのパートナーを務めた義理の甥は、ハガード大尉たちの迫力に気圧されたのか、1曲目が終わるとアンの相手をそそくさと譲り、友人を見つけてどこかへ行ってしまった。女性とどう接していいのかわからないと言っていたデイヴィーだから、世慣れたハガード大尉やグレシャム卿を前にすると居心地が悪かったのだろう。

 うっとりとハガード大尉を見上げるアンに、エミリー大叔母がグレシャム卿を紹介しようとしている。それを一瞥して、ハガード大尉はソフィアに親しげな微笑を投げかけた。
「レディ・リンズウッド、約束通り、次の曲の相手をしていただけるのですよね?」
 再び零れそうになるため息を堪えて、ソフィアは当たり障りない微笑を浮かべ、頷いた。
「ええ、お約束ですもの」
 今日の主役はアンであって、自分ではない。一晩壁の花でいてもいい。そう思っていたソフィアだが、アンの父親の知己であり、アンの相手をきちんと務めた相手を、冷たくあしらうわけにはいかなかった。

 ソフィアはまだ22歳だが、既婚者で子供もいる。若くて初々しい女性の相手をする方が男性も喜ぶのではないかと思うのに、自分に声をかけてくる男性が多いのは意外だった。

 社交界の恋愛遊戯に巻き込まれるのはうんざりだ。

 荒れ野に囲まれた館での田舎暮らしは、必要以上に気を張ることもなく、厳しい気候に慣れてしまえば不便は感じなかった。領地での暮らしに飽きてロンドンへ移り住むなど、夫が死んでから一度も考えたことがなかった。5年前に結婚し、ヨークシャーの領地へ移ってから、ソフィアが遠出をしたのはほんの数えるほどだ。エミリー大叔母に強く誘われ、バースにある彼女の屋敷へ滞在したのが、一番の長旅だった。

 今回重い腰を渋々上げたのは、亡き夫と親しかった隣人ウェルズ大佐に頼みごとをされたからだ。
 ウェルズ大佐の一人娘が、アンだった。
 今年17歳になった娘を、ロンドン社交界にデビューさせたい。いずれかの上流階級に嫁がせたいという野望はないが、一生に一度なのだから、田舎の社交界だけでなく、首都の社交界を体験させてやりたい。
 大佐の親心は、ソフィアにもたやすく理解できた。
 夫を亡くしてから男手が必要な時には手を貸してくれた、気難しいけれど本当は気のいい隣人への義理もあり、社交界デビューの手助けを引き受けたが、早くも心はヨークシャーの館へと飛んでいた。早くゴミゴミしたロンドンを離れ、荒れ野を歩き回りたい。

 ハガード大尉に罪はないのに、あとからあとからこみ上げてくるため息を何とか飲み込んで、ソフィアは差し出された手を取ろうとした。が、彼女の身体が、不意に強張った。

「失礼」

 バリトンの声が割って入り、大尉が眉を顰めて声の主へと顔を向ける。ソフィアは動くこともできずに、耳だけを澄ましていた。あの声を聞き間違えるはずがない。ロンドンを離れた時からずっと、片時も忘れたことのない声なのだから。

「先に挨拶だけさせてはくれないか」

 やはり、彼の声だ。

 ハガード大尉はすぐに場所を譲ったらしく、ソフィアの目の前に新たな男性が立った。今すぐこの場から逃げ出しそうになるのを堪え、ソフィアは静かに顔を上げた。果たして、ソフィアが思った通りの人物が、そこにいた。

「レディ・ソフィア、お久しぶりですね」
 5年前と同じ声が、自分の名を呼ぶ。黒髪に、サファイアのような濃い青い瞳。間違えようのない色彩が、記憶と重なる。あの頃よりも少し疲れたような表情が、確かに年月が過ぎ去ったことを教えている。

 だが、ソフィアの背筋を凍らせたのは、その瞳に浮かぶ冷たい光と、口元に浮かぶ歪んだ笑いだった。彼はあのことを忘れてはいない。それを思い知らされる。
「ミスター・ヒューズ・・・・・・」
 震えそうになる声を叱咤して、何とか彼の名を呟くと、ソフィアは礼を返した。そのまま双眸を伏せたソフィアに、ブラッドの自嘲に満ちた言葉が降ってきた。

「いや、今はリンズウッド伯爵夫人でしたか。私も今は、フォード伯爵となっているのですよ」
 彼の口から「リンズウッド伯爵夫人」という言葉が出るとは。その一言に、何という汚らわしさを込めるのだろうか。弾かれたように顔を上げたソフィアの手を取り、フォード伯爵は、優雅に口付けを落とした。

「お逢いできて嬉しいですよ・・・・・・レディ・ソフィア」

 ニヤリと笑う彼の瞳は、獲物を追い詰めた野生の動物のようだ。危険だと頭の中で囁く声がある。早く離れるべきだと思いながらも、ソフィアは魅入られたように、あの青い瞳から目を逸らすことができなかった。
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