こころは霧の向こうに
3
ブラッドの手が放れたあとも、ソフィアは凍りついたように動けなかった。ブラッドの双眸に浮かぶ酷薄な光は、ソフィアが知るあの頃のブラッドにはなかったものだ。彼に負わせた傷の深さを思い知らされる。
こうして見つめられると、一歩も動けない。息をすることすら忘れてしまうようだ。ソフィアの全身は、ただ一人、ブラッドだけを意識して、感じ取ろうとしている。
5年前の快活さが影を潜めた代わりに、今のブラッドに加わった落ち着きが、端正な面立ちに眩しさを与えていた。大人の男性の持つ威厳が彼の美貌に深みを加え、いっそう魅力的にみせている。
ヨークシャーを離れず、ロンドンへ決して足を向けようとしなかったのは、彼との再会を何よりも怖れたからだったというのに。よりにもよって、5年前をそのまま再現したかのように、オルソープ公爵家の舞踏会で、彼に出逢うなんて。昔と似通った状況が鍵になったのか、過去の思い出がソフィアの胸に溢れ、つまらせる。
人形のように固まってしまったソフィアを解放したのは、見知らぬ男性の、穏やかな声だった。
「ブラッド、私にも紹介してくれないか?」
長身のブラッドの横に、にこにこと微笑んでいる男性がいる。茶色の瞳が穏やかな光をたたえて、ソフィアを優しく見つめている。
「レディ・ソフィア、こちらは私の友人でウィロビー伯爵だ。伯爵、こちらはリンズウッド伯爵夫人」
渋々といった風に、どことなくおざなりにブラッドは紹介したが、全く気にした様子はなく、人懐こい笑顔でウィロビー伯爵が頭を下げた。
「はじめまして、ウィリアム・ナイトレイと申します。以後お見知りおきを」
人好きのする微笑みにほっとして、ソフィアは自然な笑顔を浮かべ、礼を返した。
「こちらこそ。リンズウッド伯爵夫人ソフィア・ポートマンと申します」
「レディ・ソフィアとお呼びしてもよろしいですか?」
「ええ」
ソフィアには断る理由もないし、ウィロビー伯爵は非常に感じの良い青年だ。何より、ブラッドの不意打ちを受けて身動きができなかったところを助けてもらった。本人には無意識だろうが、ソフィアは大いに助かったのだ。
(いけない。ここは人目があるのだから、しっかりしなくては)
無防備に感情をさらけ出してしまいそうだった自分を戒める。自分の感情に浸るのは、自室へ帰ってベッドの中に入ってからでも十分だ。
意を決して、ソフィアは顎を上げ、ブラッドを真正面から見つめた。が、てっきり敵意をむき出しのままだと思っていた相手の、意外な反応に目を丸くする。
(ブラッド?)
ちゃっかり名前を呼ぶ許可をもらったウィルに、ブラッドはつまらなそうな表情を向けていた。何かしら気に入らないことがあったらしい。しかし、ソフィアが自分を見つめていることに気づくと、ふと何かを思いついたようにニヤリと笑った。またあの皮肉げな微笑だ。ソフィアが息を呑んで立ち尽くしたのを幸い、彼女が手に提げたダンスカードへと手を伸ばしてきた。
「失礼」
驚いて声も出ないソフィアをよそに、ブラッドはカードの中身を確認していくと、何やら書き込んでから、漸く手を放した。
「4曲目は私と踊っていただきますよ」
最初からソフィアの許しを取るつもりはなかったのだろう、ぶっきらぼうに言い切って、ブラッドはソフィアをじっと見下ろした。他の紳士方には口をついて出てきたお断りの文句は、どこへ行ってしまったのだろうか。声を出すことも忘れて、ソフィアはただ、こくりと頷くしかなかった。すると彼の目元が、微かに和らぐのがわかった。
この真っ青な瞳を前にして、拒否の言葉を口にするには、とても強い意志が必要だわ。
その現実が、ソフィアを打ちのめした。彼を前にすると、この青に吸い込まれてしまう。彼の思うままの行動を取りたくなってしまう。そこに近づくのは危険だとわかっていても、青い中で暗い光が不穏な瞬きをするのを認めても、彼の魅力に抗うことはできなかった。
5年前と変わらずに、引き合う力が、確かに二人の間には存在している。
「それじゃあ私も」
嬉々としてウィルがダンスカードに名前を書き込む。それを見たブラッドの表情からやわらかいものが失われ、再び冷たい仮面へと戻った。真横から冷ややかな眼差しで見つめられても、ウィルは全く気にしていないようで、ソフィアに向かってにこりと微笑んだ。
「レディ・ソフィア、5曲目は是非私と踊って下さい」
「ウィロビー卿」
困ったように眉尻を下げて首を傾げたソフィアは、本人は無意識にしろ、清楚ながらも女らしい媚があった。正面からそれを浴びせられたウィルだけでなく、真横でそれを見てしまったブラッドも思わず息を止めた。
3人の間に訪れた沈黙は、ほんの僅かな時間だった。
(どうしたのかしら、お二人とも)
ソフィアは不思議に思い、物問いたげに2人の男性を見上げる。自分よりも背が高い相手に、しかも2人も揃ってまじまじと見下ろされるのは、居心地が悪かった。久しぶりの社交界だし、何か粗相をしてしまったのかしらと、ソフィアが不安に思い始めたとき、ちょうど良いタイミングで、ハガード大尉がそっと手を取った。
「レディ・リンズウッド、そろそろ行かないと、ダンスが始まってしまいます」
それまでは遠慮して引っ込んでいてくれたのだが、さすがにやきもきしてきたようだ。
「ハガード大尉・・・」
そういえばすっかりこの人のことを忘れていた、と、ソフィアは自分の迂闊さを腹立たしく思いながら、何とか気持ちを切り替えた。ここはヨークシャーの自邸ではない。誰が見ているのかわからないのだから、気を抜いてはいけないのだ。
どこに目が耳があるかわからないのが社交界。それはかつてのソフィアが身をもって経験している。落ち着きある伯爵未亡人として、今のソフィアには若い娘だった時よりも節度のある行動が求められているのだ。
ソフィアの評判が落ちれば、彼女を付き添い役としているアンや、後見のエミリー大叔母の評判まで傷つきかねない。
小さく息をつくと、様々な香料が人いきれと混じった熱気が鼻をついたが、それをどうにか堪えて、ハガード大尉に頷いた。
「それでは、後ほど・・・・・・」
にこやかに微笑んで、大尉に導かれるまま、ダンスに参加する人々の輪に消えていくソフィアに会釈を返して、彼女とそのパートナーが視界から消えたのを確認してから、取り残された二人の紳士は大きな息をついた。ブラッドにとっては忌々しいことに、ウィルが小さく吹き出しながら、余計な一言を付け加えた。
「彼女、君が動揺するだけのことはあるね」
フンと鼻先で笑い飛ばせないところが、痛かった。
軽快なポルカの音楽に合わせて、着飾った男女がリズミカルに拍子を取り、夢中になって踊っている。
賑やかな会場を尻目に、ブラッドは、すぐ側の椅子に腰掛けた貴婦人に近づいていった。ソフィアがいなくなったのだからどこかへ消えるかと思ったウィルも後をついてくるのは計算外だが、無闇に追い払うわけにはいかず、そのままにしておいた。
ゆったりと腰を下ろした貴婦人は、豊かな銀髪を後ろで大きな髷にまとめ、手にした扇子でゆっくりと顔をあおいで、ダンスに興じる人々を眺めている。
「ごきげんよう、スタンレー子爵夫人」
ブラッドが礼をしながら声をかけると、束の間驚いたように扇子を操る手を止めたが、すぐに笑顔で挨拶を返したところはさすがだ。人の良さそうな年配の婦人は、ほとんど黒といっても良い濃い茶色の双眸を煌かせ、いかにも楽しげに口を開いた。
「まぁまぁまぁ、お逢いできるとは思いませんでしたよ!ごきげんよう、フォード伯爵」
手袋をはめた手を差し出し、ブラッドがそれを取って口づけするのを許してから、子爵夫人は声を弾ませた。
「オルソープ公爵夫人が招待されたとは仰っていたけれど、まさかお逢いできるとは。随分とお見限りではありませんこと、伯爵」
「思いがけず跡目を継いでから、ずっと忙しくしておりましたもので。すっかりご無沙汰しておりました」
社交界への無沙汰をちくりと皮肉られ、ブラッドは決まりきった言い訳を営業スマイルで包んで返した。間髪を入れずに、ウィルを引き合わせて子爵夫人の話題を逸らす。
「子爵夫人、こちらは私の友人で、ウィロビー伯爵です。伯爵、こちらは私の祖母君の友人で、スタンレー子爵夫人」
「はじめまして、子爵夫人。ウィロビー伯爵ウィリアム・ナイトレイと申します」
ブラッド以上に社交慣れしているウィルのこと、マナー教本のレッスンよろしく、完璧な挨拶を優雅に述べると、スタンレー子爵夫人は嬉しげに目を細めた。
「素敵な殿方がお2人もいらして、とても光栄ですよ。あなた方に是非ご紹介したいご婦人が2人いるのだけど、生憎どちらもダンスに出てしまっているの」
いかにも残念そうに呟く子爵夫人に、ブラッドは悪戯っぽい笑みを向けた。
「そのうちのお一人には、先ほどお逢いしましたよ。随分と懐かしい方でしたが・・・・・・」
「あら、もうソフィアにはお逢いになったのね?ああ、ソフィアというのはわたくしの甥の娘ですの」
予測通りブラッドの話題に食いついてきた子爵夫人は、後半の台詞をウィルへ向けて、事情を説明するのを忘れなかった。ウィルがそれに感じの良い微笑を返す。
「私も先ほど、紹介していただきましたよ」
「まぁ。それは話が早くて助かりますわ」
扇子で口元を覆って、子爵夫人はほっとしたように頷いた。それから問わず語りに、今はこの場にいない伯爵未亡人のことを話し出す。
「5年前に結婚して以来、領地に引きこもってしまって社交界には顔を出そうとしなかったのですが、今回は知人の娘さんのデビューを手助けするよう頼まれましてね。それでやっと、ロンドンに出てきたのですよ。
――全く、あの子ときたら、バースに避暑にくるようにどれだけ誘っても、なかなか応じなくて。やっと去年の夏に出てきましてね、その時にはあなたのおばあ様にも可愛がっていただきました」
「へえ、それは知らなかったな」
思いがけず祖母の名が出てきて戸惑ったが、ブラッドはそ知らぬ風を決め込んだ。
祖母であるレイモンド侯爵夫人は、今宵の舞踏会の主であるオルソープ公爵夫人と連れ立って、例年、夏をバースで過ごすことにしている。スタンレー子爵夫人がバースに別荘を持ち、そこで他の老貴婦人方と親しくなったことは既に知っていたが、まさか祖母が、ブラッドの知らないところでソフィアに逢っていたとは思いもよらなかった。
こうして見つめられると、一歩も動けない。息をすることすら忘れてしまうようだ。ソフィアの全身は、ただ一人、ブラッドだけを意識して、感じ取ろうとしている。
5年前の快活さが影を潜めた代わりに、今のブラッドに加わった落ち着きが、端正な面立ちに眩しさを与えていた。大人の男性の持つ威厳が彼の美貌に深みを加え、いっそう魅力的にみせている。
ヨークシャーを離れず、ロンドンへ決して足を向けようとしなかったのは、彼との再会を何よりも怖れたからだったというのに。よりにもよって、5年前をそのまま再現したかのように、オルソープ公爵家の舞踏会で、彼に出逢うなんて。昔と似通った状況が鍵になったのか、過去の思い出がソフィアの胸に溢れ、つまらせる。
人形のように固まってしまったソフィアを解放したのは、見知らぬ男性の、穏やかな声だった。
「ブラッド、私にも紹介してくれないか?」
長身のブラッドの横に、にこにこと微笑んでいる男性がいる。茶色の瞳が穏やかな光をたたえて、ソフィアを優しく見つめている。
「レディ・ソフィア、こちらは私の友人でウィロビー伯爵だ。伯爵、こちらはリンズウッド伯爵夫人」
渋々といった風に、どことなくおざなりにブラッドは紹介したが、全く気にした様子はなく、人懐こい笑顔でウィロビー伯爵が頭を下げた。
「はじめまして、ウィリアム・ナイトレイと申します。以後お見知りおきを」
人好きのする微笑みにほっとして、ソフィアは自然な笑顔を浮かべ、礼を返した。
「こちらこそ。リンズウッド伯爵夫人ソフィア・ポートマンと申します」
「レディ・ソフィアとお呼びしてもよろしいですか?」
「ええ」
ソフィアには断る理由もないし、ウィロビー伯爵は非常に感じの良い青年だ。何より、ブラッドの不意打ちを受けて身動きができなかったところを助けてもらった。本人には無意識だろうが、ソフィアは大いに助かったのだ。
(いけない。ここは人目があるのだから、しっかりしなくては)
無防備に感情をさらけ出してしまいそうだった自分を戒める。自分の感情に浸るのは、自室へ帰ってベッドの中に入ってからでも十分だ。
意を決して、ソフィアは顎を上げ、ブラッドを真正面から見つめた。が、てっきり敵意をむき出しのままだと思っていた相手の、意外な反応に目を丸くする。
(ブラッド?)
ちゃっかり名前を呼ぶ許可をもらったウィルに、ブラッドはつまらなそうな表情を向けていた。何かしら気に入らないことがあったらしい。しかし、ソフィアが自分を見つめていることに気づくと、ふと何かを思いついたようにニヤリと笑った。またあの皮肉げな微笑だ。ソフィアが息を呑んで立ち尽くしたのを幸い、彼女が手に提げたダンスカードへと手を伸ばしてきた。
「失礼」
驚いて声も出ないソフィアをよそに、ブラッドはカードの中身を確認していくと、何やら書き込んでから、漸く手を放した。
「4曲目は私と踊っていただきますよ」
最初からソフィアの許しを取るつもりはなかったのだろう、ぶっきらぼうに言い切って、ブラッドはソフィアをじっと見下ろした。他の紳士方には口をついて出てきたお断りの文句は、どこへ行ってしまったのだろうか。声を出すことも忘れて、ソフィアはただ、こくりと頷くしかなかった。すると彼の目元が、微かに和らぐのがわかった。
この真っ青な瞳を前にして、拒否の言葉を口にするには、とても強い意志が必要だわ。
その現実が、ソフィアを打ちのめした。彼を前にすると、この青に吸い込まれてしまう。彼の思うままの行動を取りたくなってしまう。そこに近づくのは危険だとわかっていても、青い中で暗い光が不穏な瞬きをするのを認めても、彼の魅力に抗うことはできなかった。
5年前と変わらずに、引き合う力が、確かに二人の間には存在している。
「それじゃあ私も」
嬉々としてウィルがダンスカードに名前を書き込む。それを見たブラッドの表情からやわらかいものが失われ、再び冷たい仮面へと戻った。真横から冷ややかな眼差しで見つめられても、ウィルは全く気にしていないようで、ソフィアに向かってにこりと微笑んだ。
「レディ・ソフィア、5曲目は是非私と踊って下さい」
「ウィロビー卿」
困ったように眉尻を下げて首を傾げたソフィアは、本人は無意識にしろ、清楚ながらも女らしい媚があった。正面からそれを浴びせられたウィルだけでなく、真横でそれを見てしまったブラッドも思わず息を止めた。
3人の間に訪れた沈黙は、ほんの僅かな時間だった。
(どうしたのかしら、お二人とも)
ソフィアは不思議に思い、物問いたげに2人の男性を見上げる。自分よりも背が高い相手に、しかも2人も揃ってまじまじと見下ろされるのは、居心地が悪かった。久しぶりの社交界だし、何か粗相をしてしまったのかしらと、ソフィアが不安に思い始めたとき、ちょうど良いタイミングで、ハガード大尉がそっと手を取った。
「レディ・リンズウッド、そろそろ行かないと、ダンスが始まってしまいます」
それまでは遠慮して引っ込んでいてくれたのだが、さすがにやきもきしてきたようだ。
「ハガード大尉・・・」
そういえばすっかりこの人のことを忘れていた、と、ソフィアは自分の迂闊さを腹立たしく思いながら、何とか気持ちを切り替えた。ここはヨークシャーの自邸ではない。誰が見ているのかわからないのだから、気を抜いてはいけないのだ。
どこに目が耳があるかわからないのが社交界。それはかつてのソフィアが身をもって経験している。落ち着きある伯爵未亡人として、今のソフィアには若い娘だった時よりも節度のある行動が求められているのだ。
ソフィアの評判が落ちれば、彼女を付き添い役としているアンや、後見のエミリー大叔母の評判まで傷つきかねない。
小さく息をつくと、様々な香料が人いきれと混じった熱気が鼻をついたが、それをどうにか堪えて、ハガード大尉に頷いた。
「それでは、後ほど・・・・・・」
にこやかに微笑んで、大尉に導かれるまま、ダンスに参加する人々の輪に消えていくソフィアに会釈を返して、彼女とそのパートナーが視界から消えたのを確認してから、取り残された二人の紳士は大きな息をついた。ブラッドにとっては忌々しいことに、ウィルが小さく吹き出しながら、余計な一言を付け加えた。
「彼女、君が動揺するだけのことはあるね」
フンと鼻先で笑い飛ばせないところが、痛かった。
軽快なポルカの音楽に合わせて、着飾った男女がリズミカルに拍子を取り、夢中になって踊っている。
賑やかな会場を尻目に、ブラッドは、すぐ側の椅子に腰掛けた貴婦人に近づいていった。ソフィアがいなくなったのだからどこかへ消えるかと思ったウィルも後をついてくるのは計算外だが、無闇に追い払うわけにはいかず、そのままにしておいた。
ゆったりと腰を下ろした貴婦人は、豊かな銀髪を後ろで大きな髷にまとめ、手にした扇子でゆっくりと顔をあおいで、ダンスに興じる人々を眺めている。
「ごきげんよう、スタンレー子爵夫人」
ブラッドが礼をしながら声をかけると、束の間驚いたように扇子を操る手を止めたが、すぐに笑顔で挨拶を返したところはさすがだ。人の良さそうな年配の婦人は、ほとんど黒といっても良い濃い茶色の双眸を煌かせ、いかにも楽しげに口を開いた。
「まぁまぁまぁ、お逢いできるとは思いませんでしたよ!ごきげんよう、フォード伯爵」
手袋をはめた手を差し出し、ブラッドがそれを取って口づけするのを許してから、子爵夫人は声を弾ませた。
「オルソープ公爵夫人が招待されたとは仰っていたけれど、まさかお逢いできるとは。随分とお見限りではありませんこと、伯爵」
「思いがけず跡目を継いでから、ずっと忙しくしておりましたもので。すっかりご無沙汰しておりました」
社交界への無沙汰をちくりと皮肉られ、ブラッドは決まりきった言い訳を営業スマイルで包んで返した。間髪を入れずに、ウィルを引き合わせて子爵夫人の話題を逸らす。
「子爵夫人、こちらは私の友人で、ウィロビー伯爵です。伯爵、こちらは私の祖母君の友人で、スタンレー子爵夫人」
「はじめまして、子爵夫人。ウィロビー伯爵ウィリアム・ナイトレイと申します」
ブラッド以上に社交慣れしているウィルのこと、マナー教本のレッスンよろしく、完璧な挨拶を優雅に述べると、スタンレー子爵夫人は嬉しげに目を細めた。
「素敵な殿方がお2人もいらして、とても光栄ですよ。あなた方に是非ご紹介したいご婦人が2人いるのだけど、生憎どちらもダンスに出てしまっているの」
いかにも残念そうに呟く子爵夫人に、ブラッドは悪戯っぽい笑みを向けた。
「そのうちのお一人には、先ほどお逢いしましたよ。随分と懐かしい方でしたが・・・・・・」
「あら、もうソフィアにはお逢いになったのね?ああ、ソフィアというのはわたくしの甥の娘ですの」
予測通りブラッドの話題に食いついてきた子爵夫人は、後半の台詞をウィルへ向けて、事情を説明するのを忘れなかった。ウィルがそれに感じの良い微笑を返す。
「私も先ほど、紹介していただきましたよ」
「まぁ。それは話が早くて助かりますわ」
扇子で口元を覆って、子爵夫人はほっとしたように頷いた。それから問わず語りに、今はこの場にいない伯爵未亡人のことを話し出す。
「5年前に結婚して以来、領地に引きこもってしまって社交界には顔を出そうとしなかったのですが、今回は知人の娘さんのデビューを手助けするよう頼まれましてね。それでやっと、ロンドンに出てきたのですよ。
――全く、あの子ときたら、バースに避暑にくるようにどれだけ誘っても、なかなか応じなくて。やっと去年の夏に出てきましてね、その時にはあなたのおばあ様にも可愛がっていただきました」
「へえ、それは知らなかったな」
思いがけず祖母の名が出てきて戸惑ったが、ブラッドはそ知らぬ風を決め込んだ。
祖母であるレイモンド侯爵夫人は、今宵の舞踏会の主であるオルソープ公爵夫人と連れ立って、例年、夏をバースで過ごすことにしている。スタンレー子爵夫人がバースに別荘を持ち、そこで他の老貴婦人方と親しくなったことは既に知っていたが、まさか祖母が、ブラッドの知らないところでソフィアに逢っていたとは思いもよらなかった。