こころは霧の向こうに
 オルソープ夫妻とは異なり、レイモンド侯爵夫妻は社交界の行事にはあまり積極的に顔を出さないし、こうした夜会を主催することも近年はめっきり減っていた。特にブラッド兄弟の両親が不幸な事故に遭い、父は亡くなり、母はその時の後遺症がもとで病みついてからは、あの壮麗な侯爵家の城館で華やかな集いが催されることはなかった。
 痛風持ちの祖父に従って、どちらかといえば城館にこもりがちな生活を送っているはずの祖母だったが、毎年夏の避暑だけは恒例で、バースまで出かけている。その祖父母とは、フォード伯爵家を継いで以来ブラッドが顔を合わせることは稀で、互いの生活にもほとんど干渉はしていないから、ソフィアと遭遇していたことなど耳にするはずもないのだが。

 定期的に祖父母を訪問している兄夫婦なら、何かのついでに耳にしていたかもしれないが、ブラッドの耳には届いていない。とにかく、冷静な表情を取り繕っていても、自分の知らないところで身内がソフィアと逢っていたという事実は、奇妙な不快感をもたらした。ソフィアがブラッドの前から姿を消してより、これまでソフィアの生活を知ろうともしなかったし、興味を覚えたこともない。自身でも戸惑いながら、ブラッドは沸き起こる感情を外に出さないよう、意志の力でねじ伏せて、子爵夫人の話に耳を傾けた。

 幸い、ブラッドの目論見通り、世話好きなご婦人はソフィアについて色々と語ってくれるようだ。すっぱりとロンドン、及びロンドンの上流社会と関わりを絶っていたソフィアが、なぜ突然舞い戻ってきたのか。彼女の姿を目にして以来ブラッドの心を捉えて放さない疑問に、何かしらの回答を与えてくれるだろう。

「あの子は付き添い役に徹するつもりのようだけど、それではもったいないとわたくしは思うのですよ。あの子はまだ22歳・・・・・・子供がいるとはいえ、まだまだ若い盛りです。第2の人生を楽しむべきだと思いますね」

(子供がいるのか?死んだ旦那との間に・・・・・・)

 子供の存在を知ったことより、ブラッドは、そのことに思いがけなく衝撃を受けている自分に驚いた。ソフィアは既婚者なのだし、健康な若い女性なのだから、子供がいても何ら不思議はないというのに。咄嗟に子爵夫人に返す言葉が浮かばず、立ち尽くすブラッドの背筋を、冷たい汗がひとすじ伝い落ちていった。

 声を出すこともできず、ただ耳を傾けることしかできない今は、スタンリー夫人のひとり語りに愛想よく相槌を打ち、先を促すウィルの存在が有難かった。
「お子さんがいるのですか?」
「ええ、今年4歳になる女の子がいます。まぁまぁの子なのですけど、父親は結婚して半年も経たないうちに亡くなっていますからね、父親を知らない可哀想な子ですよ。ソフィアが一人で産んで育てたようなものです」
 甥の娘が一人で立ち向かわなければならなかった過酷な人生を思って胸が塞がったのか、スタンレー子爵夫人は、双眸を潤ませて、そっと言葉を詰まらせた。この親切そうな大叔母が近くにいれば、色々と手を貸してやっただろうが、サマセットとヨークシャーは、気軽に行き来できる距離ではない。

 確かに18やそこらの娘が、見知らぬ土地で男手もなく、領地と館を切り盛りしながら出産と育児をこなすのは、並大抵のことではない。5年前と変わらずたおやかな彼女のどこに、そのような芯の強さがあるのだろう。
 ブラッドが知っているのは、少々頑ななところがあっても、世間知らずで初心な、朗らかに笑うソフィアだけだ。ブラッドが知らない素顔を、亡き夫や、他の連中には見せていたということだろうか。
 その考えは、彼の胸をちくりと刺した。

 黙り込んでしまったブラッドをよそに、ウィルは再び適切な意見を述べた。無論、心にもないことを口にしているわけではなく、彼なりの根拠に則って出てくる言葉なのだが、相変わらずそつがなく、沈み込んだ子爵夫人を立ち直らせるには、十分適切だった。
「それはお気の毒に。子供には父親が絶対に必要ですよ」
 伯爵夫人は大変な苦労をされましたね、と、ウィルが眉を曇らせると、スタンレー夫人は我が意を得たりとばかりに扇子をピシリと閉じ、大きく頷いた。つい今しがたまで潤ませていた瞳が、今度は黒々と煌いている。
「おっしゃる通りですよ、ウィロビー伯爵。あの子は、今度こそ幸せになって良いと思うのです。ですからこのシーズンで、是非素敵な出逢いに恵まれて欲しいと思っていますのよ」

 彼女の目が、ウィルからブラッドへと順に向けられる。あまりのわかりやすさに、さすがのウィルも少々苦笑気味だ。主催者である公爵夫人の機嫌を損ねては大変と、強力な友人を持つ子爵夫人の語らいを邪魔する者はいなかったけれど、隙あればブラッドとウィルに自分の娘を紹介したいと考えているご婦人方は、大勢この会場にもいるはずだった。

 兄も伯爵で、ゆくゆくはレイモンド侯爵家の跡継ぎ。名門の一族に名を連ねている上、本人も若くして伯爵位を継ぎ、特に決まった相手もいない独身で、順調に資産を増やしていると噂のフォード伯爵ブラッド・ヒューズ。
 一方は、やはり代々続いてきた由緒正しい伯爵家を若くして継ぎ、独身のウィロビー伯爵ウィリアム・ナイトレイ。社交家だが浮いた噂がなく、身辺はいたって清潔。ヒューズ兄弟と共同で投資に励み、こちらも着々と財産を蓄えているというもっぱらの噂。
 2人とも容姿も優れており、まだ20代の若さという非常な優良物件である。今シーズンきっての最有力花婿候補といってよい。いや、最優良花婿候補の方が適切か。

 名門の貴族といっても、扶養すべき親族は数多く、小作人の生活も保障しなければならないとあっては、受け継いできた領地から収穫できる作物だけでは、とても生活が成り立たない。商売を卑しいことと考える風潮がある貴族社会に、商才のある者が乏しいのは当然で、なけなしの金をはたいて投資したところ、倍以上の負債となって還ってくるという話も珍しくない。
 伝統ある田舎の城館を維持するだけでも相当な費用がかかるし、体面を保つために雇う使用人の給料にも気を配らなくてはならない。優雅に狩猟や舞踏に明け暮れていればいいといった、今の貴族が理想とする貴族像は、見果てぬ夢でしかないのだ。

 いよいよ身動きが取れなくなった貴族の中には、先祖伝来の領地や城館を手放して、借金の返済にあてようとする者も出てくる。そこを手に入れるのは「成り上がり」として伝統的な貴族からはつま弾きにされるジェントリーや裕福な商人、外国貴族である。彼らと手を結ぶと同じ階級からは軽蔑の目で見られることになるし、どこの家でも窮状を何とか隠そうと必死なのが、英国社交界の実情だった。

 そうした中で数少ない貴族だけが、領地や城館を手放すことなく、投資を成功させている。1代だけの努力ではなく、祖父の代から先見の明を持って職業人たちと手を組み、投資の成果を確実に挙げてきた結果だ。フォード伯爵もウィロビー伯爵も、その僅かな人々の中に入っている。
 娘を嫁がせれば、お金の心配をしなくていいし、もしかしたら実家の借金も肩代わりしてくれるかもしれない。お嫁さんの両親が苦労している姿を見て、手を貸さない婿はいないものだから――そう夢見るご婦人方にとって、ブラッドとウィルは正に格好の餌食なのだ。勿論、一筋縄ではいかないと承知の上で。

 バリー伯爵夫妻と一緒にいれば、あからさまな母親連中が声をかけてくることはなかったし、今もスタンレー子爵夫人の話を聞いている限りは、安全だ。子爵夫人自身が、2人の伯爵をソフィアの花婿候補と考えるのも当然のこと。しかしウィルはともかく、ブラッドは決して花婿候補にはなり得ないことを、この善良な夫人は知らないのだ。
 ソフィアが、いくら親しい大叔母でも、5年前のブラッドとの交際について話すはずはない。ブラッドを裏切ったのはソフィアで、非難されるべきは彼女なのだ。
 何も知らない子爵夫人を哀れにすら思いながら、ブラッドは更なる夫人の説明を傾聴した。
 おそらく細かな過去を語りたがらないだろう本人に代わって、ロンドンを去ってからのソフィアについて、親切にも語ってくれた夫人の話の概要は、こうだった。

 5年前の社交シーズンで、デビューしたばかりのソフィアは年上のリンズウッド伯爵に見初められ(「伯爵は、わたくしと幾つも年が違わなかったのですからね」と、子爵夫人は皮肉げにいった)、ヨークシャーにある領地に赴き、結婚式を挙げた。ところが、重い病に冒されていた伯爵は、結婚後半年も経たずに死んでしまう。
 残された若い新妻は身重の身で、慣れないながらも領地を管理し、女主人としての役割を果たしてきた。翌年娘が生まれ、彼女の役割には「育児」も加わったが、隣人たちの力を借りながら、何とか領主の役割をこなしてきた。
 伯爵夫人の称号は彼女の手元に残るが、年若い義理の甥がいよいよ成年を迎えるため、家長代理としての彼女の役割は終わる。相続した領地の館に暮らすのもいいが、大叔母としては是非もう一度青春を取り戻して欲しいと願っている。

 タイミングの良いことに、亡き伯爵の友人で、良き隣人の大佐が、一人娘の社交界デビューを手助けして欲しいと依頼してきた。ロンドン社交界と縁を絶っていたソフィアは、大叔母に相談し、後見役を願い出てきた。もちろん子爵夫人は、「付き添い役」という名目でソフィア自身も社交界に再び顔を出すよう、約束を取り付けた。
 ロンドンでは、ソフィアは独自に住まいを借りたそうで、そこに娘と、アン・ウェルズという隣人の娘と一緒に腰を落ち着けたそうだ。このままどこまで腰が落ち着くのか、身内である大叔母にもはなはだ疑問のようだが。

 ブラッドが関心を持っていた事柄は、これで大体それなりの情報が集まったのだが、誤算というべき特報が、子爵夫人の話の中には混じっていて、ウィルともども、暫し言葉を失って顔を見合わせたほどだ。

「領地の経営といっても、ヨークシャーは荒れ野が多いと聞いています。農作物だけでは運営も骨が折れるでしょうね」
 と、例によって適切な相槌をいれたウィルに、子爵夫人は、彼女の年代の貴族のご婦人にしては、非常に進歩的な考えを示したのだった。すなわち、鉄道――鉄鋼業への投資が、これからの鍵となると。
「ヨークシャーという土地柄でしょうか、あの子も地元の名士と共同で、鉱山や鉄道への投資を始めているんです。それがあまりに遣り甲斐があるというので、恥ずかしながらわたくしも、少し手ほどきを受けてみましたのよ」
 夫を亡くして以来、一人気ままにサマセットで暮らしているだけという子爵夫人は、これがなかなか面白いのだと、微笑んだ。さすがに周囲を慮って、ヒソヒソ声ではあったが。
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