こころは霧の向こうに
全く邪気のない夫人を前にして、本日幾度目になるかわからない不意打ちの衝撃から漸く立ち直ったブラッドは、ウィルと素早く目配せをして、いかにも感心したように、
「それは素晴らしい!実は我々も、鉄の製造などに関心があったのですが、生憎橋渡しをしてくれる知己がおらず、手を出しかねていたのです」
「ヨークシャー以外の土地から、あそこの鉱山に出資するには、敷居が高くて。既に地元のリストに名を連ねている方の紹介がないと、なかなか新規には参入しにくいのです。ここは是非、子爵夫人に教えを乞いたいところなのですが・・・・・・いかがですか?」
ウィルがすっかり感銘を受けたという様子で囁くと、スタンレー夫人はクスクスと笑った。扇がパタパタと動いているところをみると、かなりご機嫌のようだ。
「まあ、わたくしがお教えすることはございませんわ。もしよろしければ、ソフィアに申し付けましょう。ヨークシャーの方々とは、付き合いがあるはずですから、その方がお話もスムーズでしょう」
「恐れ入ります、子爵夫人」
声を揃えて礼を述べる若い伯爵2人に、スタンレー子爵夫人は満面の笑みを送りながら、考えた。
(年齢もほどよく釣り合うし、ヨークシャーの産業に興味を持っている殿方なら、あの子にはぴったりだわ)
ブラッドとウィルの言葉は、嘘ではない。英国の産業の常識を大きく覆そうとしているのが、まさに鉄道の敷設なのだ。この技術は、国内だけでなく、大陸や新大陸でも大きな武器となる。そう睨んでいる進取の気質に富む貴族は、彼らだけではない。だが、鉄道というものへの専門知識や、つてといったものはなかなか手に入りにくく、深い知識を持つ先達とのコネクションを欲する者は多い。
ウィルと子爵夫人が他愛無い会話を続けるのを聞き流しながら、ブラッドは、ダンスの輪の中でひときわ輝く女性へと目を向けた。多くの紳士淑女が組になって踊る広い会場で、ただ一人の人を見つけ出すのは難しい。それなのに、彼女の蜂蜜色の髪が、華奢ながら女性らしい丸みを帯びた姿が、向こうから勝手に、ブラッドの視界に飛び込んでくるのだ。
(あの頃と、ちっとも変わっていない)
艶やかで豊かな髪も、夢想に耽っているかのように見える、灰色がかった明るい青い瞳も、ふっくらした赤い唇も、ブラッドの記憶にあるソフィアの姿と完全に一致しているように思える。
少々の違和感を覚えるのは、あの頃の初々しい無邪気な雰囲気が抜け、物腰に落ち着きが加わったからだろう。もっともそれも彼女の年齢にふさわしい程度で、子供っぽすぎもせず、老成しすぎてもいない、ちょうどよい調和を形作っている。
(ゲームの相手としてはぴったりだ)
かつて彼女が仕掛け、勝ち逃げした恋愛ゲームを、今度はブラッドが仕掛け、彼女に同じ想いを味わわせるには、今のソフィアが相手としてはちょうどよさそうだ。5年前の彼女のままでは、あまりに無防備で邪気がなさすぎだ。恋愛遊戯をもちかけるこちらが全面的に悪い男となってしまう。
結婚を経験し、未亡人となった現在の彼女なら、大人の男女が楽しむべき恋愛遊戯の相手に相応しい。人妻だったのだから、こちらの方面でも様々な経験を積んでいるはずだ。無論、最後に勝つのはブラッドでなくてはならない。
先ほど、ウィルにダンスを申し込まれたソフィアが見せた仕草と表情は、世慣れた2人の伯爵が思わず見入ってしまうほど、魅惑的だった。彼女のあの瞳――煙るような青の中に吸い込まれそうな気がしてくる色彩が、物問いたげに見つめてくると、健全な男性ならぼうっとしてしまうはずだ。何かを訴えたいようでいて、何かを問いかけてくるような、言葉よりも多くを想像させるあの眼差しは、5年前から彼女が持つ、変わらない癖だった。本人に言わせると、幼い頃からの癖なのだそうだが、22歳になった今は、年頃の女性らしい成熟した魅力が加わっている。
ブラッドと違う意味で世慣れているウィルでさえ、息を呑んで佇立するくらいなのだ。
ソフィアに備わった色っぽさは、亡き夫の手によって目覚めたものなのだろうか。
ちらとでも想像するだけで、ブラッドは、見たことのない彼女の夫に、激しい嫉妬を覚えた。とうに死んでしまったリンズウッド伯爵だけでなく、その怒りはソフィアにも向けられる。あの当時、初心なソフィアに、恋を教え、愛に目覚めさせたのは自分だという自負があった。男としての充実感に酔っていた。ソフィアを手に入れ、身ごもらせ、女として目覚めさせたのが亡き伯爵だという事実は、ブラッドに再び敗北感を味わわせる。5年前にソフィアが去った時、散々に飲まされた煮え湯を、もう一度味わうのは、許しがたかった。
その上、もしかしたら鉄道への投資も、彼女の夫君の遺命かもしれない。時代の機を見、領地を切り盛りする家長へと世間知らずの彼女を育てたのも、亡き伯爵かもしれない。そうなれば、実業家としてもブラッドは亡き伯爵に大きく立ち遅れていることになる。
踊りながらハガード大尉が何やらソフィアに囁きかけているらしく、彼女が目を伏せる様子が見える。ダンスの腕前は衰えていないのだろう、話しかけられてもステップは僅かも乱れない。的確にリズムを踏みながら揺れる身体の動きに合わせて、鈍く光る薄紫のスカートが、ふわりと花が開くように舞った。
花びらに守られて、甘い蜜をたたえた花弁が、ひそやかに身をさらし、蜂の訪れを待っている。そんなイメージがブラッドの脳裏に閃いて、心の底にひっそりと落ちていった。甘美な予感を伴いながら――。
「それは素晴らしい!実は我々も、鉄の製造などに関心があったのですが、生憎橋渡しをしてくれる知己がおらず、手を出しかねていたのです」
「ヨークシャー以外の土地から、あそこの鉱山に出資するには、敷居が高くて。既に地元のリストに名を連ねている方の紹介がないと、なかなか新規には参入しにくいのです。ここは是非、子爵夫人に教えを乞いたいところなのですが・・・・・・いかがですか?」
ウィルがすっかり感銘を受けたという様子で囁くと、スタンレー夫人はクスクスと笑った。扇がパタパタと動いているところをみると、かなりご機嫌のようだ。
「まあ、わたくしがお教えすることはございませんわ。もしよろしければ、ソフィアに申し付けましょう。ヨークシャーの方々とは、付き合いがあるはずですから、その方がお話もスムーズでしょう」
「恐れ入ります、子爵夫人」
声を揃えて礼を述べる若い伯爵2人に、スタンレー子爵夫人は満面の笑みを送りながら、考えた。
(年齢もほどよく釣り合うし、ヨークシャーの産業に興味を持っている殿方なら、あの子にはぴったりだわ)
ブラッドとウィルの言葉は、嘘ではない。英国の産業の常識を大きく覆そうとしているのが、まさに鉄道の敷設なのだ。この技術は、国内だけでなく、大陸や新大陸でも大きな武器となる。そう睨んでいる進取の気質に富む貴族は、彼らだけではない。だが、鉄道というものへの専門知識や、つてといったものはなかなか手に入りにくく、深い知識を持つ先達とのコネクションを欲する者は多い。
ウィルと子爵夫人が他愛無い会話を続けるのを聞き流しながら、ブラッドは、ダンスの輪の中でひときわ輝く女性へと目を向けた。多くの紳士淑女が組になって踊る広い会場で、ただ一人の人を見つけ出すのは難しい。それなのに、彼女の蜂蜜色の髪が、華奢ながら女性らしい丸みを帯びた姿が、向こうから勝手に、ブラッドの視界に飛び込んでくるのだ。
(あの頃と、ちっとも変わっていない)
艶やかで豊かな髪も、夢想に耽っているかのように見える、灰色がかった明るい青い瞳も、ふっくらした赤い唇も、ブラッドの記憶にあるソフィアの姿と完全に一致しているように思える。
少々の違和感を覚えるのは、あの頃の初々しい無邪気な雰囲気が抜け、物腰に落ち着きが加わったからだろう。もっともそれも彼女の年齢にふさわしい程度で、子供っぽすぎもせず、老成しすぎてもいない、ちょうどよい調和を形作っている。
(ゲームの相手としてはぴったりだ)
かつて彼女が仕掛け、勝ち逃げした恋愛ゲームを、今度はブラッドが仕掛け、彼女に同じ想いを味わわせるには、今のソフィアが相手としてはちょうどよさそうだ。5年前の彼女のままでは、あまりに無防備で邪気がなさすぎだ。恋愛遊戯をもちかけるこちらが全面的に悪い男となってしまう。
結婚を経験し、未亡人となった現在の彼女なら、大人の男女が楽しむべき恋愛遊戯の相手に相応しい。人妻だったのだから、こちらの方面でも様々な経験を積んでいるはずだ。無論、最後に勝つのはブラッドでなくてはならない。
先ほど、ウィルにダンスを申し込まれたソフィアが見せた仕草と表情は、世慣れた2人の伯爵が思わず見入ってしまうほど、魅惑的だった。彼女のあの瞳――煙るような青の中に吸い込まれそうな気がしてくる色彩が、物問いたげに見つめてくると、健全な男性ならぼうっとしてしまうはずだ。何かを訴えたいようでいて、何かを問いかけてくるような、言葉よりも多くを想像させるあの眼差しは、5年前から彼女が持つ、変わらない癖だった。本人に言わせると、幼い頃からの癖なのだそうだが、22歳になった今は、年頃の女性らしい成熟した魅力が加わっている。
ブラッドと違う意味で世慣れているウィルでさえ、息を呑んで佇立するくらいなのだ。
ソフィアに備わった色っぽさは、亡き夫の手によって目覚めたものなのだろうか。
ちらとでも想像するだけで、ブラッドは、見たことのない彼女の夫に、激しい嫉妬を覚えた。とうに死んでしまったリンズウッド伯爵だけでなく、その怒りはソフィアにも向けられる。あの当時、初心なソフィアに、恋を教え、愛に目覚めさせたのは自分だという自負があった。男としての充実感に酔っていた。ソフィアを手に入れ、身ごもらせ、女として目覚めさせたのが亡き伯爵だという事実は、ブラッドに再び敗北感を味わわせる。5年前にソフィアが去った時、散々に飲まされた煮え湯を、もう一度味わうのは、許しがたかった。
その上、もしかしたら鉄道への投資も、彼女の夫君の遺命かもしれない。時代の機を見、領地を切り盛りする家長へと世間知らずの彼女を育てたのも、亡き伯爵かもしれない。そうなれば、実業家としてもブラッドは亡き伯爵に大きく立ち遅れていることになる。
踊りながらハガード大尉が何やらソフィアに囁きかけているらしく、彼女が目を伏せる様子が見える。ダンスの腕前は衰えていないのだろう、話しかけられてもステップは僅かも乱れない。的確にリズムを踏みながら揺れる身体の動きに合わせて、鈍く光る薄紫のスカートが、ふわりと花が開くように舞った。
花びらに守られて、甘い蜜をたたえた花弁が、ひそやかに身をさらし、蜂の訪れを待っている。そんなイメージがブラッドの脳裏に閃いて、心の底にひっそりと落ちていった。甘美な予感を伴いながら――。