こころは霧の向こうに

4

  いつもならうきうきと心が弾むポルカの音楽が、どこか遠いところで流れているように聞こえる。耳に入ってはくるものの、心に何も伝えずに、ただ右の耳から左の耳へと、筒抜けになっているだけのよう。
 とはいえ、条件反射とは恐ろしいもの。リズムに合わせて足は正確にステップを踏み続け、どんなパートナーが相手でも、輪を乱さずにダンスを続けることができる。これも、娘時代のダンス訓練の賜物だ。
 ほんの幼い頃からダンスに憧れていたソフィアは、エミリー大叔母の家で夜会が開かれると、こっそり2階のバルコニーに出て、大人たちを真似て一人踊ったものだ。本格的に訓練を受け始めると、みるみるうちに上達し、デビューの時にはサマセット一の踊り手といわれた。
 おかげで、心はぼんやり別のところを彷徨っていても、恥ずかしくない程度に踊ることができる。
 ぼうっとした意識の中で、右手の甲だけが不可解な熱を持っていた。ちょうど手袋越しに、ブラッドがキスをしたところだ。その1点だけが、奇妙に熱く、疼いている。

「何か気がかりなことでもおありですか?」
 ターンをしてすれ違った時、ハガード大尉がソフィアの耳に向かって呟いた。はっと意識を覚醒させると、ポルカは終盤にさしかかったところで、大尉の視線がソフィアをまじまじと見つめていた。
(いけない。またうっかりしていたわ)
 お行儀悪く舌打ちしたくなる。何よりもダンスのパートナーに対して失礼だ。付き添い役の失態で、アンの印象まで悪くなったら申し訳ない。
「・・・いえ、慣れない夜会で、少し頭痛がしてきたようです」
 目を伏せて、もっともらしい理由を打ち明けると、大尉の明らかにほっとした声が上から降ってきた。
「それはいけない。このあと少し休まれてはいかがですか?」
「まだあと2曲、踊ることになっているのです。休むのはそのあとにいたしますわ」
 大尉を傷つけないようについた、罪のない嘘だったが、真剣に心配されるといたたまれなくなってくる。当たり障りなく返答して、ソフィアは音楽に身を任せた。
 軽快なリズムに集中して、気分も浮き立たせよう。穏やかな微笑を顔にはりつけ、大尉のリードに合わせてターンを繰り返しながら、沈みがちになる心をどうにか軽くしようと試みたが、失敗に終わった。
 結局のところ、思考は再会したかつての恋人のもとへと戻っていく。

 不意打ちの再会に衝撃を受けても、旧知の間柄という立場で挨拶を交わすだけならば、何とかうまく切り抜けられたと思う。最低限の会話と、最小限の接点だけを持って、安全な場所へ逃げしまえばよかったのだ。他の男性に対してそうしたように。
 それなのに、彼にダンスを申し込まれてしまうなんて。自分の失態を思うと、ため息をつくだけではやりきれない。よりにもよってワルツだ。パートナーと2人だけの世界に浸れるワルツは、若者に人気があったが、今のソフィアにはもっとも回避したい曲目だった。
 何とか力を振り絞って、乗り切るしかない。諦めにも似た思いで、ソフィアは終わりに近づいたポルカのメロディーに耳を傾けた。これが終われば、ブラッドが待っている。

 あと少しで曲が終わるのだから、せめて最後だけでも集中しようと思うのに、ソフィアの思考はふらりと、子供部屋で1人きり、寝台に横になっているはずの少女へと向かっていく。今頃は黒い巻き毛を枕の上にふわりと散らして、赤い頬で布団に潜りこんでいるだろう。
 乳母がついているのだから心配ないが、住み慣れた我が家を離れて、大都会の夜を借り物の家で過ごす娘を思うと、心が痛んだ。グレースは、やっと4歳になるかどうかという年齢だ。昼間は大都会の生活が珍しく、興奮しても、夜になればやはり寂しさが勝るだろう。
(ブラッドと、お友達の伯爵とのダンスが終わったら、早めに帰ろう)
 そう決めたところで、ちょうどポルカが終わった。足を止め、大尉の顔を見上げると、ソフィアの心の裡など何も知らない彼はまだ心配そうに見つめている。彼女が悩まされているのは頭痛だと信じて疑っていないようだ。
 内心罪悪感を覚えたソフィアを、ハガード大尉は慇懃にエスコートし、エミリー大叔母のもとへと戻った。にこやかに迎えてくれる大叔母の脇には、黒髪に真っ青の瞳の青年と、栗色の髪に茶色の瞳を持つ青年が佇んでいる。どちらもイブニングコートにホワイトタイという正装を自然に着こなし、洗練した都会の青年貴族という雰囲気を漂わせている。

 が、ソフィアの視線は、自然と黒髪の青年へ向いてしまう。おずおずと見つめるソフィアに、ブラッドは眉を潜めて、冷ややかな眼差しを返してくる。明らかに不機嫌そうだ。
 エミリー大叔母が失礼なことでもいったのだろうか、それとも何か気に障ることでもあったのだろうかと訝るソフィアのもとへ、つかつかと歩いてくると、ブラッドは大尉の前を塞ぐように立ち止まった。

「交代してもらえるかな?」

 硬質な、刃物のような鋭さを帯びて発せられたブラッドの高圧的な台詞に、今度はソフィアが眉を顰めた。威圧するように大尉を見つめる視線といい、高慢な貴族そのものといった態度だ。かつてのブラッドは、それを心底嫌悪していたというのに。
 挑戦的なフォード伯爵の態度に、ハガード大尉は唇をぐいと引き結んだものの、すぐに軍人らしく冷静な判断を働かせたようだった。感情のかけらもこもっていないかさかさと乾燥した声で、大尉は承諾の意を伝えた。
「かしこまりました、伯爵」
 あっさりと自分をブラッドに引き渡すことを同意した大尉の声を聞きながら、ソフィアはそっと胸を撫で下ろした。大尉を薄情だなどと責めるつもりはない。上流社会での序列、社会的な身分を思えば、名門貴族に連なる上、爵位を持つブラッドに逆らうことは、ハガード大尉には許されない。下手に逆らえば、無礼だとして社交界から非難を浴びることは目に見えている。

 それでは、とソフィアにも丁寧に礼をして背中を向けた大尉を見送ると、改めて目の前に立つ青年伯爵に視線を戻した。人混みの中に消える大尉の背中を眺めながら、ブラッドは歪んだ笑みを口元に浮かべていた。その瞳に浮かぶのは、満足げな光だ。不審に思いながら、ソフィアは小さな声で呼びかけた。
「伯爵」
 ゆっくりとソフィアに視線を戻したブラッドの表情からは、威圧的な気配は消えていた。口元の微笑みは深くなったものの、眉間の皺も消えている。安心していいのか、気を揉めばいいのかわからないまま見上げるソフィアに、ブラッドは優雅な礼をしてから、腕を差し出した。
「行きましょう。そろそろ始まりますよ」
 素っ気ない台詞に促され、ソフィアはブラッドの腕につかまった。5年ぶりに取る彼の腕は、礼装越しとはいえ、無駄なく筋肉がついてたくましいのがわかる。大抵の貴族男性は、色白でひょろりとしているものだが、ブラッドの腕は先ほどのハガード大尉の腕よりも固く引き締まっているようだった。
(そういえば、軍隊に入ったという噂を聞いていたんだわ――)
 ソフィアの頭に、いつだったかエミリー大叔母が何気なく漏らしたブラッドの消息が閃いた。確かヨークシャーに引きこもって暫くした頃、近況を報せる手紙の中に、バリー伯爵家の次男が入隊したと書かれていた。華やかな貴族の若者と軍隊とが簡単に結びつかなくて、ソフィアは愕然としたものだ。もしも、厭世に駆られてブラッドが軍隊入りしたのだとしたら――世を憂う原因を作ったのは、間違いなくソフィアなのだから。

 ホールの中央で足を止めると、ブラッドの右手がソフィアの腰に回された。どきりとしたが、そ知らぬ風を装って、ソフィアは左手をブラッドの肩に回し、右手を彼の左手に添えた。ブラッドが礼儀を欠くことをしているわけではない。これからワルツを踊るのだから、ポーズを取るのは当たり前である。
 細い腰に回された腕は頑丈で、ソフィアがよろけてもびくともしないだろう。額のあたりにブラッドの吐息を感じるほど近くにいて、曲がかかるのをじっと待っているのは苦痛だった。見上げればまともにブラッドと目を合わせることになるし、仕方なくソフィアは、彼のベストを熱心に見つめ続けた。
 彼の手が触れているところが、やけに熱い気がする。ドレスの下にはコルセットをしっかりと着けているから、よほど熱いコテでも当てられなければ熱を感じないはずなのに、大きな手のひらから伝わる熱が、じわじわと全身に及んでいくようだ。
 フ、と彼の唇から吐息が零れ、ソフィアの右手を握る手に、ぎゅっと力がこもった。反射的に強張ったソフィアの身体を、力強い腕がぐいと引き寄せる。咄嗟にソフィアの口から声が漏れたが、タイミングよく始まったオーケストラの音色が、綺麗にそれをかき消してしまった。

 3拍子に合わせてステップを踏み出しながらも、ソフィアの腰を引き寄せる腕は緩むことがない。ワルツを乱さないように注意しながら、ソフィアは細腕をつっぱって、少しでも距離を置こうと試みたけれど、予想通りブラッドの腕はびくともしなかった。憎らしいことに、腰に回された腕だけでなく、ソフィアの右手を掴んでいる手も、どちらも微動だにしない。
 このままではこちらが消耗してしまうだけだ。諦めて太い腕に身を任せると、ワルツの旋律を辿る方に集中することにした。

 暫くは黙々とステップを踏み続けていた2人だったが、くるりとターンした時に、低い囁きが上から降ってきて、ソフィアは息を呑んだ。
「相変わらずつれないな、ソフィア。久しぶりに逢ったというのに、言葉もかけてはくれないのか?」
「な・・・・・・」

 何をいうの、と顔を上げたソフィアは、思いがけずすぐ近くにブラッドの顔を見出して、そのまま喉を凍りつかせた。ソフィアの白い額に触れそうなほどの距離に、彼の唇がある。かつてソフィアに優しいキスの雨を降らせた唇の感触が、まざまざと甦ってくる。遠い昔のことだというのに、まるで昨日のことのように鮮やかに。
 これではまるで、自分がブラッドの愛撫を欲しがっているかのようだ。淫らな想像に耐え切れず目を逸らすと、今度は真っ青な瞳が、覆いかぶさるように覗き込んでくる。彼が顔の角度を変えると、ソフィアの耳たぶをバリトンの声が震わせた。親密そうに囁かれる台詞は、背筋をぞくりとさせる。
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