こころは霧の向こうに
「私を忘れたわけではないのだろう?」
 ブラッド、と呼びかけたいのに、掠れた吐息が漏れるだけで、喉から声が出てこない。瞠目して、長身の青年伯爵を見上げることしかソフィアにできることはなかった。形の良い唇が、にやりと笑みを刻むのが目に入る。そこに漂うのは、今宵もう何度も見慣れた皮肉の色だ。
 再び背筋がぞくりとしたが、これは不快な戦慄だった。ソフィアが素早く周囲に視線を走らせると、ダンスに興じるカップルの多くは、2人の世界に没頭している。とはいえ、誰がどこで聞き耳を立てているかわからない。ブラッドは何を言い出すつもりなのだろう。
 知らず、眉を寄せて、ソフィアはかつての恋人を凝視した。地中海のような深い色の瞳に、微かな波が立ったような気がした。あれは何だろうと思った時には既に遅く、迂闊にも小さく呼びかける言葉が、無意識に唇から零れていた。
「ブラッド?」
 はっとした時には、小さな呼びかけは宙に消えていた。間近から見下ろしてくる真っ青な双眸が僅かに見開かれ、酷薄な光が薄れて驚愕の影がよぎる。そこから目を逸らせないまま、サファイアの色にソフィアが見入っていたのは、時間にしてどの程度だったのだろう。

 いつしかオーケストラの奏でる音楽は止んでいた。どこまでも続く深い青に心を奪われ、機械的に3拍子を踏みながらも、ソフィアの耳には己の心臓の音しか聞こえてこなかった。周囲に円を描く色とりどりに着飾った男女の姿も視界から消え、目の前の青年と2人きりで、ソフィアは踊っていた。
「・・・やっと名前を呼んでくれたね、ソフィア」
 ソフィアを現実に引き戻したのは、冷ややかな彼の台詞だった。彼の口角がゆっくりと上がるのを見つめるソフィアの耳に、オーケストラの楽器の旋律と、人々のざわめきが、はっきりと飛び込んでくる。自分がどこにいるのか状況を思い出し、胸がざわめいた。焦りのせいだろう、頬がうっすらと熱を持つのがわかる。
 世間知らずの少女ではあるまいし、適切な振る舞いを欠いて、甘い妄想に浸るなんて。ブラッドに見惚れていたのを、誰かが目ざとく気づいたかもしれない。
 俯いて自分を叱りつけ、ブラッドの眼差しを意識しないように言い聞かせるけれど、効果はない。無理もない。こうして目を伏せていても、彼の熱心な視線がはっきりと感じ取れてしまうのだから。
 視線だけではない。彼の腕が腰に回され、もう片方の手はソフィアの手を握っている。全てを振りほどいて逃げ出したい衝動に駆られたが、下唇を噛みしめて、何とかそれをやり過ごす。このまま目を合わせずに、操り人形のようにくるくると踊り続けていれば、直にワルツは終わる。もう暫くの辛抱だ。
 唇を固く噤んでいたから、声に出したりはしなかったはずなのに。

「あ・・・!」
 鼓動が不規則に跳ね、引き結んでいたはずの唇から声が漏れた。突然ブラッドの右手が、更にソフィアの腰を引き寄せたのだ。不意打ちにバランスを崩しかけて、反射的に右手でたくましい腕に縋ると、強く握り返された。
 一瞬ブラッドの胸に倒れこむような形になったところを、がっちりと捕獲されてしまったのだ。こうなってくると、互いの腰はほとんど密着しているようなものだ。ブラッドの身体から発散される熱に包まれ、ソフィアの頬はいっそう赤くなった。
 右手を振りほどこうとしても、戒めはちっとも緩まない。頬を少し動かせば、彼の胸に顔を埋めるのも簡単だ。左右にも背後にも動けない。僅かな汗の匂いとハンガリー水の香りが、石鹸の清潔な香りに混ざって、ソフィアの鼻腔をくすぐった。
 動悸が更に上がる。それは、ソフィアがかつてよく知っていたブラッドの香りだった。あの頃は安堵と幸福に包まれた匂いなのに、今は無性に泣きたくなるのはなぜだろう。
 彼の香りは、心の奥深くにしまいこんでいた記憶を揺さぶる。そこから目を背けたソフィアは、軽い目眩を覚えてブラッドの腕に縋った。彼の腕は、当然のようにソフィアを受け入れ、支えてくれる。再び記憶が揺さぶられそうになった時、耳元で低い囁きが聞こえた。
「ソフィア?」
(ああ・・・・・・!)
 悲しくなるのはなぜだろう。
 一瞬目を瞑り、ソフィアは湧き上がる涙を奥へと押し戻した。勘違いしてはいけない。ブラッドはあの頃の彼ではない。ソフィアを全て受け入れてくれる愛情深い恋人のままではないのだ。
 彼の声を包みこんでいる冷たさが、氷の刃となってソフィアに深く刺さってくる。気遣うような言葉にも、凍りつくような寒さが潜んでいる。ぐさりと刺しこんだ傷口までも凍らせるような寒さだ。全身の熱が不意に消え失せた気がした。
(彼はわたくしを憎んでいる)
 はっきりと思い知らされる。

 5年前、大陸へと出かけたブラッドの帰りを、ソフィアは待たなかった。彼からすれば、それは手酷い裏切り以外の何物でもないだろう。今更、あの時ソフィアを襲った事情を説明しても、もう時間は戻らない。
 17歳のソフィアはもういない。22歳のソフィアがいるだけだ。陽気な目をした若者もいない。軍隊を経て、暗い影を瞳に宿した青年がいるだけだ。
 覚悟していたことではないか。何を期待できたというのか。甘い台詞を囁いてもらえると思っていたのだろうか、わたくしは。浅はかな自分を笑いたくなって、俯いたまま、唇の端を小さく持ち上げた。

「ソフィア、何も話してはくれないんだね」
 綺麗に編みこんだ蜂蜜色の髪に、バリトンの声が降ってくる。
(わたくしは、本当に愚かだわ)
 この声を聞いて、まだ心が震えるなんて。頑なに俯きながら、ソフィアは歯を食いしばった。全身を包む肌寒さの中で、彼の手が触れているところだけは変わらずに熱を持っている。温もりを心地よいと感じる自分がいる。
 まだこんなにも、彼に踊らされている。
 呻きたくなるのを堪えて、ソフィアは悟った。ブラッドがソフィアに及ぼす影響は、これほどに大きい。自分を憎んでいる人に主導権を握らせるなんて、危険極まりない。
 怖れがソフィアの背後から忍び寄ってくる。彼がその気になれば、いつでもソフィアを破滅させることができる。とても簡単なことだ。
(絶対に、ブラッドに悟られないようにしなくては)
 夫が死んだとき以上の困難が、ロンドンで待ち受けていたなんて。この試練に、自分はどこまで耐えられるだろうか。

 ぴりぴりと過敏になった神経に、ホールにこもるむっとした熱気と、酒や香水が入り混じった臭いが威力を増して襲いかかってくる。どんよりとこもった空気が、人いきれに漂う湿気を吸い取って重みを増し、全身の毛穴を覆いつくすようにべったりと肌に吸いついてくる。呼吸をすることすらままならない。目の縁に涙が滲み、次第に視界が狭まっていく。
(気持ち悪い・・・・・・)
 ぼんやりとしてきた意識の中で呟いた時、両の肩を掴んで軽く揺さぶってくる腕があることに気がついた。
「ソフィア?顔色が悪いぞ」
 苦しさに縮こまっていたソフィアの心を、ふわりと包みこんだのは、昔と寸分変わらない優しさに満ちた、ブラッドの声だった。
 うなじを支えられて、自然と見上げる形になった。大きな手に頭の重みを預けて、ソフィアは小さく息を吐き、眉間に皺を寄せて覗き込んでくるサファイア色の瞳に、唇だけで微笑んだ。皺が一層深く刻まれたところを見ると、意図したほどにはうまく笑えなかったらしい。

 ワルツの調べはまだ続いていたけれど、2人の足はとうに止まっていた。
「・・・・・・気分が良くないの」
 乾いた唇から漏れたのは、吐息のような囁きだった。ざわめきの中でも彼の耳はしっかりそれを拾ったようで、思案するように一瞬だけ瞳を眇めたけれど、首から離した手を腰に回して、低く呟いた。
「外に出よう」
 こちらの承諾は不要らしい。有無をいわせない強さがありありと込められていて、ソフィアが反問する間もなかった。気圧されたまま、ブラッドに抱きかかえられるようにして、人の間を縫い、バルコニーへと向かう。
 踊り始めた時はホールの真ん中あたりにいたのに、2人はダンスの輪のはずれの方で足を止めていた。リズムに乗ってステップを踏んではいたけれど、ブラッドにリードされるままに踊っていたから、気づかないうちに見事に誘導されていたらしい。
 バルコニーに近い一帯には、窓ガラスを伝って差し込む冷気を嫌ってか、休憩する人影もまばらだ。誰にも見咎められることなく、2人は庭園を見下ろすバルコニーへと滑り出た。

 ブラッドが後ろ手に窓を閉めると、室内の喧騒から遮断され、喘ぐようなソフィアの呼吸が虚ろに響いた。抱きかかえる力を緩めることなく、ブラッドは庭園に近い端に置かれたテーブルと椅子へソフィアを連れていき、慎重に支えながら座らせる。
 力が上手く入らない。
 がくりとよろけたソフィアの肩を大きな手が受け止め、そのまま支えてくれる。重たい身体を頼もしい腕に預けて、ソフィアは漸くほっと息を継いだ。ぴたりと肌に張りついていた空気の膜が、新鮮な夜気の中に溶けていく。
「落ち着いて。少しずつ息を吸うんだ」
 肩を支える手とは別の手が、背中をそっとさすってくれる。ドレスの後ろは背中が大きく開いているから、手袋の皮が直に肌に触れる。羽のように軽く上下する手の動きは、激しく脈打つ心臓を、ゆっくりと宥めてくれた。上手く酸素を取りこめずにゼイゼイと喘いでいた息が、次第に穏やかになっていく。
「その調子だ」
 耳元で低い声が励ましてくれる。痺れていた頭が徐々にはっきりしてくるにつれて、視界も鮮明になってくる。
 規則正しい呼吸を取り戻したソフィアの唇から、白い靄が零れた。ホールは初夏のような暑さだけれど、一歩外へ出ると、早春の夜に相応しい冷気が全身を包む。ドレスの生地は薄手の繊細なものだから、マントを着けていない今は、身体が震えるような寒さのはずだ。
 しかし、人混みに酔った後では、しんしんと凍るような夜気は、肌に心地よかった。窓から漏れる室内の明かりは、バルコニーの半ばまでしか届かない。ソフィアとブラッドの姿は薄闇に紛れ、影絵のようだった。
「暫くここにいるといい」
 様子が落ち着いたのを見定めたブラッドは、華奢な身体を椅子の背に寄りかからせてから手を離した。背中と肩から温もりが消えた途端、心細さに襲われて、ソフィアは青年伯爵を見上げた。
 ホールから漏れる光はブラッドの身体で遮られ、彼の顔は陰になってはっきりと見えない。けれど、空気の震えで、困ったように微笑んだのを感じた。自分はよほど情けない表情をしていたのだろうか。
「飲み物を取ってくるよ。すぐに戻る」
 安心させるように言い聞かせると、彼の姿はたちまち窓ガラスの向こうに消えた。室内のざわめきが束の間バルコニーに木霊して、その後は再び静寂が落ちた。
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