教習ラプソディー
「榛名さん、来月から営業に回ってくれるかな」
そう言った上司の、人の好さそうな顔が浮かんできて、少々足が重くなる。
詩は、化粧品メーカーに勤める社会人である。
事務員として入社して約1年。営業部署の人手が足らなくなったとかで、この度有難いことに営業へと異動になった。
栄転とも言って良いはずの異動は、しかし詩にとっては重い条件を課すものだった。
「あれ、榛名さん免許無いんだっけ? あちゃー……。営業回り、結構車移動多いからさぁ。取ってきてくれる?」
「いえ……」と尻込みし、でも仕事しながら免許とか、すごく時間かかっちゃいますよ、とやんわり拒否してみたものの、返ってきた言葉には親切すぎて泣けてきた。
「必要な時は有給とか、なんなら特休出してあげるよ。できるだけ早く取っちゃった方が榛名さんもいいでしょ」
出来れば自動車なんて、生涯運転したくはなかった。
あの夢を見るかも知れないと、不安で胸が締め付けられ、呼吸が苦しくなる。
それは、詩にとって出来れば見たくない、悪夢そのものだった。
肌が焼けるような熱風も、あの叫び声も、声にならない助けも、全てがリアルな感覚として襲い掛かってくる。
一体、いつまであんな夢に怯えなければならないのか。
いつまでこんな思いをさせられなければならないのか。
「……はぁ……」
重く息を吐き出したその時、コースの方から怒声と言って差支えない男の声がかすかに聞こえてきた。
「ッだっからさあ! 走り出しでクラッチから足離したら動かせねぇじゃんか!」
驚いてそちらを見やると、詩が通る道のすぐ横に設けられている、発進停止の練習場所から聞こえてきたようだった。
1台だけ残された教習車が、無様にエンストを繰り返している。
私もあんな感じだったなぁ、と1段階の頃の自分を見ているようで、自分もさぞかし教官をイライラさせた事だろうと苦笑が漏れた。
「あの先生、かな……」
確か、邑上といっただろうか。声もどことなく似ているような気がする。
初めての実車の時、その教官は常に眉間に皺が寄っていて、発言もかなり厳しかった。