翼のない天狗
「おささをお召し上がりですね」
 氷魚が顔を上げた。深山は着々と杯を重ねている。
「美味い酒でした」
 有青が言うと、氷魚は微笑んだ。
「孝行息子だな。この酒は親父が残した物だ。俺はありがたく呑むぞ、弔いだからな」
 深山の琥珀色をした目が潤む。弔いというより、明らかに酒のために。

「あの妙薬も、お酒のような味でした。すっと喉を通り、腹の中で熱を帯びていきます。飲み干すと、身体中にその熱が広がり、何かが暴れるように走り回りました。私は思わず目を瞑り、身体の内からくすぐられるような、疼くような感覚に耐えました。鰭が脚になるのは今までも月に二度ありましたが、それとは全く違っておりました。

「氷魚。気を確かに、氷魚」
 清青様の声を頼りに、私は何とか気を保ちました。そして清青様を探しました。
「清青様、もっとお側に。闇が深くて見えませぬ」
「闇……とな」
 目を瞑ったときから、あたりは暗闇に包まれていたのです。声はするのに、清青様の温もりは感じるのに、お姿が見えません。深い海の底よりもまだ暗い闇の中で、私は悟りました。清青様もすぐにわかってくださいました。

「この東雲を共に見たかった」
 垂水は相変わらず大きな音を立てて流れ落ちていました。そのしぶきを、初めて冷たいと思いました。清青様の切なげな溜め息の温かさを肌に感じました。
「痛みはないか」
「はい」
「ならば立ってみようぞ」
 清青様の両手に支えられ、私はそこに立ち上がりました。足元には勢い良く川が流れ、風は山から降りて垂水の辺りを回ります。木々の梢を鳴らし、鳥や獣は穏やかに囁いておりました。何より、暖かな日差しに私は包まれていました。
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