泡影の姫
「あっ、蛍の出番だよ」

蛍が飛び込み台の上に立つ。あの緊張感を全身に纏いながら、それでも彼女はひるまない。
ただ、まっすぐ前を見る。
きっと、飛び込み台の上で蛍も信じているだろう。

〝今日が、一番いい記録が出せる日〟だって。

観客席にいるから、見えるものもある。

一瞬を全力で縮めようとする選手たち。
 
その瞬間を見届けようとする人たち。

空気が揺れるほど大きな声援。

たくさんの熱気が入り混じった会場。

それらを肌に感じながら、私も少し緊張して手を握る。
今までの自分が出た大会では感じたことのない類の緊張感だ。

ピストルの音が鳴る。
彼女はためらわずに飛び込んだ。きれいな飛び込みだった。
選手たちが、己の全力をかけて一瞬を泳ぐ。

〝負けたくない〟

こちらにまで伝わってくるその思いと、高揚感。

「はやっ」

きれいなターンで折り返す。
ゴール目前、蛍がラストスパートをかける。
蛍が、頭半分ほどリードする。

「うん、いい感じ」

がんばれと、私は蛍にエールを送る。

自分の声なのか、会場の誰かの声なのかわからなくなるほどの歓声。
泳いでいる蛍にも、ちゃんと届いているだろうか?

「蛍!!」

息が苦しくなるくらい、私が叫んだ瞬間蛍の優勝が確定した。

全身で息をしながら、満面の笑顔を浮かべる蛍がプールサイドで仲間たちと喜び合っている姿を見て、胸が詰まる。

「……苦しいか?」

「えっ?」

「泣いてる」

湊に言われて、初めて頬に伝う涙に気付く。

「違うの。苦しいんだけど、でも違うの!よかったって、すごく思ってて」

上手くは言えない。

でも私の中にあるこの気持ちはどろどろと渦巻く黒いものなんかじゃなくて。

「なんだろう?アレ?全然、止まらない」

もっと、優しい別の何かで。

「湊、上手く言えないんだけどね。でも私、今すごく泳ぎたいって、そう思った」

私はその瞬間、確かな未来が見えた気がした。
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