泡影の姫
泳ぎたい。

それは、私の中でもっとも純粋で貪欲な欲望だった。

一度湧き上がった欲望をとどめる方法を私は知らない。
仮にあったとしても、そうしない。
考えるよりも先に、体が動いた。

Тシャツに手をかけ、ジーンズを脱捨てる。

飛び込み台に立つ。

ドクン、と一つ大きく心臓が鳴った。

静寂は、大会のそれに似ていた。

緊張感と、それをも上回る高揚感。

私はずっと、これを求めていたのかもしれない。

ピストルの号令もなければ、観衆のざわめきもない。

水着もゴーグルもない。

ただ静かな月明かりの下で、私は息を吸い、そして暗闇の中に飛び込んだ。
水の中は一寸先すら見えない。
足の代わりに腕の力でカーバーし、無理のない範囲で足をバタつかせ、25mを泳ぎきる。

泳げた。

ああ、私はまだ泳げるんだ。

折り返しでターンをし、また泳ぐ。
ただただ欲望のままに泳ぎ続ける。

速く、もっと速く。
いくらそう願っても、もう以前のように体は動かない。

それでも楽しかった。

私はずっと泳ぐことが好きだった。
今でもそれは変わらない。
考えてうだうだしている時間が、なんともったいなかったことだろう。

これだけで、よかったんだ。

なんで気づかなかったんだろう?

今更私の水泳中毒が、治るわけなんかないんだって。
< 29 / 157 >

この作品をシェア

pagetop