私と彼の恋愛理論
そもそも、私は嘘など一つも付いていない。

『シェイクスピアは愛せない。』
あくまで、ほんとうのことを彼に伝えたまでだ。

プロポーズの時に、差し出された花束も指輪を受け取らずに。
私は、静かにその一言を口にした。
それで、私たちがともに歩む未来が消滅したのは確かだけれど。

私は嘘は付いていない。
私が愛せなかったのは、シェイクスピアで。
イギリスで。
そして、臆病者の自分だけだ。



バーへ着くと、彼は先ほどと変わらずカウンターでワイングラスを傾けていた。

「お待たせしました。」

一言声を掛けて、彼の横の席に着いた。

「お疲れ様。」

そう言って、彼は微笑んだ。

それから、しばらく彼は喋り続けた。
イギリスでの暮らしや、仕事の話。
帰国してから暮らしている街の話。
二年前に私たちにあったことなど、まるで忘れてしまったかのように。
想像していたような気まずさは一切なくて、私はワインを飲みながら、ただ彼の話に耳を傾けていた。

ひょっとすると、彼は偶然会った昔の恋人に帰国の報告をしてみたくなっただけなのかも知れない。
彼はすでに新しい恋をしていて、私とのことはすっかり過去のことになっているのだろう。
そう結論付けた時、私の中に寂しいと思う気持ちが芽生える。
あまりに自分勝手な感情に、ひとり心の中で苦笑しながら、顔だけは必死に微笑み続けた。

もう、彼はとっくに私のものではないのだ。
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