世界でいちばん、大キライ。
「ありがとうございましたー」
今日の新聞を眺めつつ、一杯のコーヒーをゆっくりと飲み終えると、その男は店を出る。
僅かな皺があるスーツの後姿を、桃花はその日もただ黙って見送った。
住宅街にあるカフェ、『café soggiorno(カフェ・ソッジョルノ)』。
店長がイタリアに滞在して、独学でコーヒーを学んで開業したというこじんまりとしたカフェ。
『soggiorno』とは、イタリア語で『居間』とか『寛ぎ』とかいう意味合いだ。
店長が、家族のようなアットホームな雰囲気の店にしたいという気持ちからそう名付けたもの。
桃花はソッジョルノに勤め始めて6年ほど。
初めはアルバイトとしてオーダーを主に担当していた。高校卒業と同時に、店の利益も安定してきたのもあり、声を掛けられ社員扱いとなる。
それは、就職試験や、受験勉強から逃れたくて選んだ道ではなく。その道が、彼女の本当に歩みたい道だったからだ。
「そろそろ店仕舞いの時間だ。桃花ちゃん、最後に淹れるかい?」
「はい、もちろんです」
「ははっ。その〝熱〟、変わんないなぁ」
店長の椎葉了(しいばりょう)に言われると、桃花は語尾を被せ気味に返事をした。
マシンを洗浄する前に、桃花はいつもラテアートの練習を兼ねて、一杯のカフェラテを飲むのが習慣。
桃花が昔から興味を持っていたのはそれだ。
ラテアートとデザインカプチーノ。
桃花ははじめ、そのふたつを類似しているもののように思っていた。
しかし実際は、ラテアートとは、エスプレッソにきめ細かく泡立てたフォームドミルクをピッチャーから注ぎ、対流を利用して模様を作るもの。そして、デザインカプチーノとは、エスプレッソにふわふわなミルクを注ぎ、その上に楊枝などを使用してエスプレッソやチョコレートシロップ等で絵を描くもの。
より高度な技術を要するのは前者の方。
そして、桃花が習得したいと思うほうも、どちらかといえばラテアートだ。
高校時代からその職に携わることを望むあまり、一時は留学も考えたが、家庭の経済事情上桃花には厳しいもので。
せめて、とそれに携われるバイトをし、その資金を好きな仕事で稼げるなら一石二鳥、と閃いた。
そう考えて働いていた店で、社員に抜擢されて今に至る。
「だって、まだまだですもん」
桃花は口を尖らせて答えると、その後はひとことも発することなく。
真剣な瞳でエスプレッソと向き合っていた。