M/Aya
―また保雄が浮気をした。

 「今度は本当の浮気よね」

 結那は弱々しく笑った。
 麻弥には冗談に思えなかった。
 
 「私が本命の彼女である」と言いたいのだろう。
 主張したところで何の利益も無い下らないプライド。
 だが、むしろ結那のような少女にさえ、そんなものがあるのかと、麻弥は少し驚いた。
 今度の保雄の相手は出会い系サイトだった。
 保雄はこまめに女漁りをしていたらしい。
 発覚したのは、また結那が保雄の携帯をチェックしたからであるが、前科がある為か、保雄は土下座して謝ったという。

 「もう二度としないから」

 だがすぐにまた違う女との浮気が発覚した。このときもう、結那の精神はボロボロになっていた。 
 男が信じられない。
 人間が信じられない。
 何も信じられない。

 (違う。その保雄という男がクズなだけだ)

 「信じる」などという馬鹿げた行為を恋愛に持ち込むとはなんと愚かだろうと麻弥は思った。
 
 (でも・・・、それも裏切られてみないと学習できないことかもしれない)

 麻弥は自分を振り返り心の中で自嘲した。

 ついに結那は保雄の頬を打った。
 思わず手が出てしまったのだろうが、結那の中でそれは正当な暴力だと思った。
 だが返ってきたのは更なる暴力だった。

 「お前、今、何をした?」

 頬を打った結那の手を掴んで保雄は静かに言った。
 保雄の・・・、その目を見たとき、結那は恐怖した。
 次に意識が飛んだ。
 握りこぶしで顔面を殴られたのだ。
 倒れたところを何発も蹴られた。

 「夏休みだったから良かったけど・・・」

 顔を殴られたのはその一回だけだったという。大量の鼻血が出たが幸い、腫れはすぐに引いた。
 家族には転んだということでごまかしたという。
 暴力の嵐が終わった後、保雄は取り乱した。

 「なんてことをしてしまったんだ」

 保雄は氷で結那の顔を冷やし、体中に出来たあざに湿布を張った。

 「ご、ごめんなさい」

 何度も謝りながら、保雄は生い立ちを語り出したという。

 保雄が幼いころ、父親の暴力に母と妹と怯えて暮らしていたということ。
 母が逃げ出してから、人が信じられなくなったということ。
 暴力を振るわれるとキレてしまうということ。
 
 結那は泣きながら保雄を抱きしめた。保雄は何度も「ありがとう」と言った。
 「私がなんとかしてあげなきゃ」と結那は決心したという。
 だが、それから度々、保雄が暴力を振るうようになった。しかしその後は憑き物が落ちたように、謝り、必要以上に優しくなる。
 その繰り返した。

 「この間、殴られて肋骨にヒビが入ったの」

 先ほど結那が見せたカラダの痣の中のどれかだろう。

 「私じゃ無理なのかなって・・・」

 結那は命の危険を感じているらしい。

 「だけど、ここで逃げたら私・・・」

 「なるほどね」

 麻弥は頷いた。ようやく結那の気持が分かったのだ。

 「え?」

 と結那が俯いていた顔をあげた。

 結那の悩みは、麻弥が話を聞くうちに想像していた「暴力が恐いから逃げられない」でものでは無かった。
 どうやら結那は保雄との関係を「自分との戦い」と位置づけてしまっているらしい。

 (自分と戦うところはそこじゃないでしょうよ)

 あまりに馬鹿馬鹿しくて麻弥は唇に薄ら笑いを浮かべた。

 「いい、平本さん。私の心からの忠告よ。一度しか言わないわ」

 「う、うん」

 「別れなさい」

 「え?でも・・・」

 結那は麻弥を見たが麻弥の瞳に恐れを抱き、再び俯いた。

 「で、でも・・・!」

 結那は反論しようとしているらしい。

 「帰って」

 麻弥が結那の言葉にかぶせるように一言。

 「もう私に出来ることは全部やったわ。帰って頂戴」

 麻弥は精一杯の思いやりを発揮し、話を全部聞いて、自分が絶対に正しいと思えるアドバイスをした。
 (これ以上、私に何を求めるの?)

 結那はこぶしを握り締め、震え出した。
 肩を上下させ、嗚咽している。

 (面倒くさいことになったわ・・・)

 ―だから関わりたくないのだ、他人とは。

 麻弥もこれ以上、どうして良いのか分からない。

 「わ、分かれる・・・」

 結那がポツリと言った。

 「だ、だって恐いんだもん。保雄さんだって大変なのは分かってる。保雄さんは悪くない。だけど私には何もしてあげられないんだもん。ごめんなさい」

 結那は泣きながら叫んだ。

 (博愛主義ってこういうものかしら・・・)

 さすがの麻弥もぞっとした。
 結那は何度も浮気をされ、暴力を振るわれているのにも関わらず、その相手に謝っているのだ。
 
  「俺が駄目になったのは、生い立ちのせいだって。お前は裏切らないよな?お前に裏切られたら俺、もう死ぬしかないって・・・」

 と、保雄が言うらしい。
 暴力を何度も振るわれ、何度も同じことを言い聞かされたわけだ。
 それがもともと大人しく、受身という性格の結那を縛り付けているのだろう。

 (一種の洗脳ね)

 麻弥は心理学は一通り読んでいる。
 一通りと言ってもその数は専門書を含め何十冊にも及ぶ。
あくまで形而学上ではあるが、人間心理と言うものを少し分かるつもりでいる。
 麻弥にはまだ人生経験というものが足りない。 
 それでもある種の人間はものの見事に心理学の本に書かれたように行動し、考えるということを何度も見ている。

 「別れたいのね?」

 結那はこくんと頷いた。

 「分かったわ。私が別れさせてあげる」

 麻弥は立ち上がった。
 
 「で、でも・・・どうやって?」

 「平本さんは心配しなくていい。早く忘れなさい」 
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