姫恋華〜ひめれんげ〜【改稿版】
 朝早くから、人々が忙(せわ)しなく出入りしていた。

 この日のために能舞台まで設営され準備は万端だった。

 桜は思ったよりも早くに満開を向かえ、今はもう散り初めになってしまっている。

 和成はその桜並木に立ち、ちらちらと舞い落ちる様(さま)を眺めていた。

(これはこれで、趣がある……)

 彼は散る花が好きだった。

 もう少しすると、江戸に滞在中の他藩の藩主たちがやってくる。それがそろった頃合に、将軍のご一行が到着するだろう。

 名誉なことかもしれないが、気の重い一日になるのは、まず間違いなかった。

(桜よ。今日一日事無く終わるよう、見守っていてくれ。)

 そう祈りながら、和成は藩主たちを出迎えるべく並木をあとにした。




「上(うえ)さまご到着!」

 家臣が高らかに告げると、居並ぶ藩主たちが一斉に平伏した。

 勢いのよい足取りで、上さまが入って来た。続いて御台所(みだいどころ)、世継ぎの君、そして側室とその子
ら。

 能舞台が一番よく見える位置に、上さまが胡坐(あぐら)を組んで座ると、和成はその隣に進み出た。

「まずは、一献お召し上がり頂きながら、能をご覧頂きたいと思います」

「うむ」

 上さまは、能好きで有名だった。

 静かな酒宴の場に鼓の音が響き、能が始まった。

 上さまは上機嫌な様子で、盃を傾けている。

 御台所やお歴々も、それぞれにお楽しみの様子。

(このまま、無事に終わりそうだな)
と、和成が思った時だった。

 上さまに、「赤松よ」と呼ばれた。

「は」

 重々しい声に背筋が伸びる。

「そなた、いまだ正室を迎えてないと聞く」

「…………は」

 その話かと、嫌な予感しかしなかった。

「何故だ?」

「……若輩の私には、まだ早いことかと」

 皆が、この会話に聞き耳を立てている。

 そう感じた。

「見事に藩を立て直した敏腕(びんわん)藩主が、若輩とは誰も思うまいて。のう」
と、上さまは御台所に同意を求めた。

 御台所も微笑みながら静かに頷く。

「今日はのう。赤松よ」
「は」

「そなたの縁談を用意してきたのだ」

 一気にその場が色めきたった。

 もう能など、誰も見ていなかった。

 感情をめったに表に出すことのない和成が、目を見開いて固まってしまった。

「その相手をここで言うのは控えるが、後程改めて話をいたそう」

 そして上さまは、満足そうに酒を含んだ。

 引く手あまたの和成に、唾を付けておくためなのか。

(公衆の面前で、よくも言って下された。上さま)

 直々のお声がかりの縁談となれば、もう誰も彼を婿になどとは思わないだろう。

 今日の行啓の目的はこれだったのかとさえ思えてくる。

 ようやく思考の戻った和成は、歯噛みしたい思いでこう言った。

「ありがたき、幸せにございます……」


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