姫恋華〜ひめれんげ〜【改稿版】
(4)成敗
ばしゃばしゃと水たまりを踏みながら走ってくる音が聞こえてきた。
振り返れば庭の其処ここに灯された松明に照らされた宗明の姿が浮かび上がっていた。
「ゆらさま!」
険しい顔でゆらを背にかばった宗明に、「違うの。三郎太。その人は違うんだよ!」とゆらは後ろから伸び上るようにして宗明の肩を掴んだ。
嵯峨に向かって刀を構えた宗明は振り返ることなく訝しげに問い返す。
「何が違うのです?」
「その人は陰陽師の嵯峨さんなの!鈴ちゃんの旦さんだよ」
ふっと宗明の肩から力が抜けたように感じた。
「では、京の?」
「ええ。お見知り置きを」
「これは……失礼を致した」
宗明は深々と頭を下げた。
そんな宗明に嵯峨はくすっと笑うと、「挨拶はほどほどに致しましょう。屋敷の中がずいぶん騒がしくなりましたからね」
ふっと視線を動かした嵯峨につられて屋敷を見れば、そこはものすごい喧騒に包まれていた。
いや。それまでも人々の怒声と悲鳴が庭にまで聞こえてきてはいた。
けれど蜘蛛の大群に追われ、嵯峨に出会い、そして紙の鳥が蜘蛛を食い尽くすという衝撃的な光景を前に、ゆらの聴覚は屋敷の騒々しさまで捉えてはくれなかった。
それがようやく耳に入ってくるようになった。
「そうだ。三郎太。おしずさんは?」
「娘たちと共に逃げると言ってはいましたが」
「いくらおしずさんでも一人じゃ無理だよ」
道場の娘だけに、おしずもそれなりの腕を持つ。
しかし娘たちをかばいながら剣を振ることの難しさを思えば、場数を踏んでいないおしずは不利だ。
「ゆらさまはこちらの陰陽師どのと逃げてください。私は中に戻ります」
「わたしも行く!」
「だめです」
ぴしゃりと言って、宗明は嵯峨に顔を向けた。
「お願いできますか?」
「残念ながら、それは無理ですねえ」
「は?」
眉をひそめた宗明に嵯峨は肩をすくめた。
「どうせなら皆で行きましょう」
「どういうことだ?」
すると嵯峨はゆったりと優雅に扇を開いた。
それを口元にあて、少し低めた声で囁くように言った。
聞こえるか聞こえないかのかすかな声に、また一瞬喧騒が聞こえなくなる。
「ゆらちゃんには見届けてもらわなければなりませんからね」
「……見届ける……ゆらさまが……」
扇の上から目だけをこちらに向けて嵯峨は頷いた。
「そろそろ知っても良い時です」
宗明が息を飲んだ、ような気がした。
肩越しに見ても、宗明の表情のすべては見えない。
けれど彼が今までとは違う緊張をしていることは感じた。
「三郎太?」
声を掛ければ、肩が小さく震えた。
「……私が、お守りします。……参りましょうか」
ゆらに向けられた瞳には葛藤と憂いが色濃く浮かんでいた。
「……いいの?」
あのゆらが、そう問い返さずにはいられないくらいに。
「よくはありませんが、仕方ありません。私の側から決して離れないよう」
腹をくくった宗明の動きは早い。
ゆらの手首を掴むと引き寄せ歩き出した。
「わ、ちょっと、三郎太!」
「それでは私も行きましょうかねえ」
後ろで嵯峨の呑気な声が聞こえた。
引きずられるようにして歩いていたゆらがその声に振り返ると、もうそこに嵯峨の姿はなく、彼のいたその場所には大きな水たまりが出来ていた。
振り返れば庭の其処ここに灯された松明に照らされた宗明の姿が浮かび上がっていた。
「ゆらさま!」
険しい顔でゆらを背にかばった宗明に、「違うの。三郎太。その人は違うんだよ!」とゆらは後ろから伸び上るようにして宗明の肩を掴んだ。
嵯峨に向かって刀を構えた宗明は振り返ることなく訝しげに問い返す。
「何が違うのです?」
「その人は陰陽師の嵯峨さんなの!鈴ちゃんの旦さんだよ」
ふっと宗明の肩から力が抜けたように感じた。
「では、京の?」
「ええ。お見知り置きを」
「これは……失礼を致した」
宗明は深々と頭を下げた。
そんな宗明に嵯峨はくすっと笑うと、「挨拶はほどほどに致しましょう。屋敷の中がずいぶん騒がしくなりましたからね」
ふっと視線を動かした嵯峨につられて屋敷を見れば、そこはものすごい喧騒に包まれていた。
いや。それまでも人々の怒声と悲鳴が庭にまで聞こえてきてはいた。
けれど蜘蛛の大群に追われ、嵯峨に出会い、そして紙の鳥が蜘蛛を食い尽くすという衝撃的な光景を前に、ゆらの聴覚は屋敷の騒々しさまで捉えてはくれなかった。
それがようやく耳に入ってくるようになった。
「そうだ。三郎太。おしずさんは?」
「娘たちと共に逃げると言ってはいましたが」
「いくらおしずさんでも一人じゃ無理だよ」
道場の娘だけに、おしずもそれなりの腕を持つ。
しかし娘たちをかばいながら剣を振ることの難しさを思えば、場数を踏んでいないおしずは不利だ。
「ゆらさまはこちらの陰陽師どのと逃げてください。私は中に戻ります」
「わたしも行く!」
「だめです」
ぴしゃりと言って、宗明は嵯峨に顔を向けた。
「お願いできますか?」
「残念ながら、それは無理ですねえ」
「は?」
眉をひそめた宗明に嵯峨は肩をすくめた。
「どうせなら皆で行きましょう」
「どういうことだ?」
すると嵯峨はゆったりと優雅に扇を開いた。
それを口元にあて、少し低めた声で囁くように言った。
聞こえるか聞こえないかのかすかな声に、また一瞬喧騒が聞こえなくなる。
「ゆらちゃんには見届けてもらわなければなりませんからね」
「……見届ける……ゆらさまが……」
扇の上から目だけをこちらに向けて嵯峨は頷いた。
「そろそろ知っても良い時です」
宗明が息を飲んだ、ような気がした。
肩越しに見ても、宗明の表情のすべては見えない。
けれど彼が今までとは違う緊張をしていることは感じた。
「三郎太?」
声を掛ければ、肩が小さく震えた。
「……私が、お守りします。……参りましょうか」
ゆらに向けられた瞳には葛藤と憂いが色濃く浮かんでいた。
「……いいの?」
あのゆらが、そう問い返さずにはいられないくらいに。
「よくはありませんが、仕方ありません。私の側から決して離れないよう」
腹をくくった宗明の動きは早い。
ゆらの手首を掴むと引き寄せ歩き出した。
「わ、ちょっと、三郎太!」
「それでは私も行きましょうかねえ」
後ろで嵯峨の呑気な声が聞こえた。
引きずられるようにして歩いていたゆらがその声に振り返ると、もうそこに嵯峨の姿はなく、彼のいたその場所には大きな水たまりが出来ていた。