姫恋華〜ひめれんげ〜【改稿版】
「佐伯殿」

 畳の上に突っ伏している佐伯を揺さぶれば、「う~ん」と呻いて薄目を開けた。

「あなた、クモさまの手下なんだろう?どうにかしてくれよ」

「ん、な……クモさま……」

 まだ思考の回路が繋がらないのか反応が鈍い。

「そう、クモさまだよ」

 佐伯の焦点がやっと巨大な蜘蛛に合った。

「ひ……」

 小さく悲鳴を上げたまま硬直した佐伯。

 驚愕の表情で真っ黒い色をした蜘蛛を見上げている。 

「あなたのクモさまだろう?」

 半ば飽きれながらそう言えば、佐伯はぷるぷると頭を横に振った。

「あ、ああ、そうだ。クモさまだ。いや、違う。これは違う。違うけど違わない……」

「は?何言ってんだ」

「う、うわ~」

 佐伯はその場から逃げ出した。「誰か。誰か、いないか!」と縁側に通じる障子を開けて声を張り上げている。

 そしてそのまま裸足で庭に飛び出し助けを呼び続けている。

 クモさまだが、クモさまではない……。

 新之助は刀を構え直しながら蜘蛛を見た。

(なら、これはいったい何だ)

 その大きさのせいか動きは緩慢だ。

 あの男は確かにこれを“クモさま”と呼んで姿を消したのではなかったか。

 それなのに佐伯は「これはクモさまであって、そうではない」と言う。 

(混乱している……)

 新之助はひとつ小さく息をついた。

 考えるよりもまずは行動か。

(さて、どっちを優先するかな)

 振り返れば、佐伯は降りしきる雨の中で慟哭していた。

 このままでは気が触れてしまいそうなくらいに。

(まずはあっちか)

 踵を返し、縁側に出ようと足を踏み出した。

 直後目の端で黒い塊が動いた。

 確認する前に刀を振り上げる。

 ガッと言う鈍い音が響いた。

 刃で受け止めていたのは蜘蛛の鋭い脚。

 何も音を発しない蜘蛛はとても静かな存在だった。

 けれど、それだけに禍々(まがまが)しい。

 間近に迫るクモの眼は新之助を見ているようで見ていない。

 それは虚(うろ)のような空洞、命の光を持たない眼だった。

「クモさま~!」

 佐伯が叫んでいる。

(愚かしい)

 己(おのれ)よりも力ある存在を求め、道を誤ったというのか。

 何のために。

 金のため? 

 出世欲のため?

 その為に人が犠牲になっているというのに。

 ああして叫んでいても、誰も助けに来ないではないか。

 それが自分の価値だと、なぜ気づかない。
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