姫恋華〜ひめれんげ〜【改稿版】
 新之助は蜘蛛の足を押しのけた。

 ゆらりと蜘蛛の巨体が揺れる。

「大きいだけの物なのだな。お前は」

 力もなく、素早さもない。

(あの黒づくめの男は、それを知らなかった訳でもあるまい)

 虚勢か。

 逃げるための時間稼ぎか。

 新之助はそれ以上動こうとしない蜘蛛をそのままに佐伯のもとに走った。

「佐伯殿。しっかりされよ」

「ああ、クモさま~」

 見れば、佐伯は涙まで流していて、それに気づいた新之助は思わず「ちっ」と舌打ちしてしまった。

「こんなとこに蹲(うずくま)っていても仕方ないだろう。行くぞ」

 ちらっと蜘蛛を見たが、まだ内蔵の前で佇んでいた。

「いやじゃ。わしのクモさま~」

「クモさまクモさまとしつこいんだよ」

「風間さん!」

 苛立つ新之助の耳に、いきなり年若い娘の声が飛び込んできた。

 顔を上げれば、クモさまのいる部屋のすぐ側、周り縁の角にその娘が立っていた。

「ゆらさん」

 どうして、こんな時に来るかな、この子は……。

「ゆらさん、気を付けて!」

「女、女だ」

 佐伯の恰幅の良い体がすっと立ち上がった。

「おい?」

「クモさま、贄ですぞ。さあ、お召し上がりください!」

 嬉々として叫ぶ佐伯の視線はゆらを捉えていた。

 ググと蜘蛛が体の向きを変えた。と思う間もなく、部屋の壁に突進。

 ドーンという音と共に壁に大穴を開けた。

 蜘蛛の目の前には、ゆら。

 彼女は立ち尽くし、呆然と禍々しい存在と対峙していた。

「ゆらさん!」

 動きが鈍かったのって、腹が減っていたからなのか。

 新之助は駆け出しながら、そんな間抜けなことを思っていた。

「クモさまのお食事だ~」

 佐伯のむかつく声を背に受けながら。


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