姫恋華〜ひめれんげ〜【改稿版】
そんな二人の様子を物陰から見ていた嵯峨が愛弟子を振り返った。
眠ることなく朝を迎えた嵯峨は、別の用を済ますためにどこかに行っていた斎斗と合流したのだ。
「さて、我々も戻りましょうか」
「鈴猫、置いて行っていいのですか」
「鈴は今のあの子に必要でしょうからねえ」
「……あんな頼りない娘が本当に?」
「人は変わるものですよ、斎斗。特に、年頃の娘さんはね」
ふふっと笑った嵯峨を斎斗は訝しそうに見ている。
そこに突然割り込んできたのは。
「旦さん。黙って帰るなんて許さへんで~!」
どーんと主の胸に飛びかかった鈴。
それを嵯峨は「悪い悪い」と抱き留めた。
そして、その後からひょっこり現れたのは、斎斗が頼りないと一蹴したゆらだった。
「旦さんが行ってしまうって、鈴ちゃんが慌てて飛び出してったから、わたしも一緒について来ちゃいました」
へへと顔を緩めるゆらに、斎斗は不機嫌そうにした。
しかし、ゆらはそんなことには気付きもしないで、主人と愛猫の別れの場面に感動していた。
それがさらに憎々しく思われるのか、斎斗は「なんでこの子なんだ」とまだぶつぶつ言っている。
そんな二人の様子を微笑ましく眺めながら「ゆらちゃんも京にいらっしゃい」と嵯峨がぽつりと言ったのは、そんな時だった。
「京ですか」
きょとんとするゆらに、嵯峨は深く頷いた。
「江戸にいては見えないものが京にはある。京にいれば、江戸の新たな姿も見えてくるでしょう。そして京と江戸、そのどちらも見たとき、あなたはこの国の別の姿を見ることが出来るようになる。あなたはそれを見届けるべき人なのですよ」
「どうして、わたしが?」
「それは京においでになった時にお教えいたしましょう。この世は常に変わりゆく」
そう言うと、嵯峨は手の平にポッと青い焔を灯した。それは温度を感じない焔だった。
それは嵯峨が言葉を紡ぐたびに青から黄へ、そして赤へと変化していった。
「これらは違うように見えて、元はひとつの焔です」
焔は赤から紫になると、また青へと戻った。
「巡り巡って、また同じ所へ戻ってくる。けれど、これは同じように見えて、やはり元の焔とは違うものなのです。人の世もこれと同じ。良いこと、悪いこと、様々なことが絡み合い混じり合い、人の世を形作っていく。その中にあって、人は人の力でより良い結果を導こうと努力する。絶望し、倒れ込みそうになっても、また前へと進もうとする。何故か」
すると嵯峨の掌の上の焔がくるくるとつむじを巻き始めた。
やがてそれは小さな観音様の姿になった。
「混沌とした闇の中であっても、人は必ず救いを見出し、己を鼓舞して一歩を踏み出すからです。人はそこに観音の姿を見出します。観音様はあらゆるものに姿を変え、この世に救いをもたらしてくださる。陰陽師は人がその救いを見出すためのお手伝いをするために存在しています。国のため、天子様のため、この国に住むあらゆる人のため。その人々の苦しみを少しでも取り除くために、陰陽師の業(わざ)は使われる。私は、ゆらちゃん、あなたにもその業を教えたいと思っているのですよ」
「わたしに……?」
「ええ。まあ、それは京においでになった時のお楽しみということで」
嵯峨がパンと手を打ち合わせた。
ふっとその場の空気が緩む。
「え、ちょ、嵯峨さん。ここまで言っといてお預けですか」
「時間です。戻りましょう、斎斗」
「ああ、やっと帰れる」
心底ほっとしたように漏らした斎斗に少しむっとしながら、ゆらは鈴を受け取った。
「鈴。ゆらちゃんをしっかりご案内するんだよ」
「は~い」
嵯峨と斎斗がそこにあった古井戸に飛び込んだ。
急いでその縁(ふち)に取り付いたゆらは声を張り上げた。
「嵯峨さん。わたし、まだ京に行くか、わかりませんよ~!」
木霊のように響くゆらの声の向こうから、嵯峨の声が返ってきた。
「それでいい。行くか行かないかは、ゆらちゃんが決めることですからね~」
姿の見えなくなった嵯峨が、くすりと笑ったような気がした。
「井戸に向かって叫ぶな。うるさいんだよ~~~!」
やっぱり、あいつむかつく。
「斎斗に関しては意見が合(お)うたな。ゆら」
静けさを取り戻した井戸端で、ゆらと鈴に妙な連帯感が生まれていた。
眠ることなく朝を迎えた嵯峨は、別の用を済ますためにどこかに行っていた斎斗と合流したのだ。
「さて、我々も戻りましょうか」
「鈴猫、置いて行っていいのですか」
「鈴は今のあの子に必要でしょうからねえ」
「……あんな頼りない娘が本当に?」
「人は変わるものですよ、斎斗。特に、年頃の娘さんはね」
ふふっと笑った嵯峨を斎斗は訝しそうに見ている。
そこに突然割り込んできたのは。
「旦さん。黙って帰るなんて許さへんで~!」
どーんと主の胸に飛びかかった鈴。
それを嵯峨は「悪い悪い」と抱き留めた。
そして、その後からひょっこり現れたのは、斎斗が頼りないと一蹴したゆらだった。
「旦さんが行ってしまうって、鈴ちゃんが慌てて飛び出してったから、わたしも一緒について来ちゃいました」
へへと顔を緩めるゆらに、斎斗は不機嫌そうにした。
しかし、ゆらはそんなことには気付きもしないで、主人と愛猫の別れの場面に感動していた。
それがさらに憎々しく思われるのか、斎斗は「なんでこの子なんだ」とまだぶつぶつ言っている。
そんな二人の様子を微笑ましく眺めながら「ゆらちゃんも京にいらっしゃい」と嵯峨がぽつりと言ったのは、そんな時だった。
「京ですか」
きょとんとするゆらに、嵯峨は深く頷いた。
「江戸にいては見えないものが京にはある。京にいれば、江戸の新たな姿も見えてくるでしょう。そして京と江戸、そのどちらも見たとき、あなたはこの国の別の姿を見ることが出来るようになる。あなたはそれを見届けるべき人なのですよ」
「どうして、わたしが?」
「それは京においでになった時にお教えいたしましょう。この世は常に変わりゆく」
そう言うと、嵯峨は手の平にポッと青い焔を灯した。それは温度を感じない焔だった。
それは嵯峨が言葉を紡ぐたびに青から黄へ、そして赤へと変化していった。
「これらは違うように見えて、元はひとつの焔です」
焔は赤から紫になると、また青へと戻った。
「巡り巡って、また同じ所へ戻ってくる。けれど、これは同じように見えて、やはり元の焔とは違うものなのです。人の世もこれと同じ。良いこと、悪いこと、様々なことが絡み合い混じり合い、人の世を形作っていく。その中にあって、人は人の力でより良い結果を導こうと努力する。絶望し、倒れ込みそうになっても、また前へと進もうとする。何故か」
すると嵯峨の掌の上の焔がくるくるとつむじを巻き始めた。
やがてそれは小さな観音様の姿になった。
「混沌とした闇の中であっても、人は必ず救いを見出し、己を鼓舞して一歩を踏み出すからです。人はそこに観音の姿を見出します。観音様はあらゆるものに姿を変え、この世に救いをもたらしてくださる。陰陽師は人がその救いを見出すためのお手伝いをするために存在しています。国のため、天子様のため、この国に住むあらゆる人のため。その人々の苦しみを少しでも取り除くために、陰陽師の業(わざ)は使われる。私は、ゆらちゃん、あなたにもその業を教えたいと思っているのですよ」
「わたしに……?」
「ええ。まあ、それは京においでになった時のお楽しみということで」
嵯峨がパンと手を打ち合わせた。
ふっとその場の空気が緩む。
「え、ちょ、嵯峨さん。ここまで言っといてお預けですか」
「時間です。戻りましょう、斎斗」
「ああ、やっと帰れる」
心底ほっとしたように漏らした斎斗に少しむっとしながら、ゆらは鈴を受け取った。
「鈴。ゆらちゃんをしっかりご案内するんだよ」
「は~い」
嵯峨と斎斗がそこにあった古井戸に飛び込んだ。
急いでその縁(ふち)に取り付いたゆらは声を張り上げた。
「嵯峨さん。わたし、まだ京に行くか、わかりませんよ~!」
木霊のように響くゆらの声の向こうから、嵯峨の声が返ってきた。
「それでいい。行くか行かないかは、ゆらちゃんが決めることですからね~」
姿の見えなくなった嵯峨が、くすりと笑ったような気がした。
「井戸に向かって叫ぶな。うるさいんだよ~~~!」
やっぱり、あいつむかつく。
「斎斗に関しては意見が合(お)うたな。ゆら」
静けさを取り戻した井戸端で、ゆらと鈴に妙な連帯感が生まれていた。