姫恋華〜ひめれんげ〜【改稿版】
「風間さん?」

 間近で聞こえた声にはっとして顔を上げると、道場の主の娘であるおしずが俺の前にいた。

「おしずさん……」

「今日は風間さん、上の空だったわね。夕餉に煮付けを作ったの。持って帰って召し上がってね」

 正座する俺の前に、風呂敷包みがそっと差し出された。

「いつも済みません」

 男の一人暮らし。朝晩を一膳飯屋で済ますことの多い俺には、料理上手なおしずの持たせてくれるご馳走は本当に有り難い物だった。

「もうみんなあらかた帰っちゃったし、風間さんも疲れてるみたいだから、今日は早々に上がってくださいな」

 気付けば、あれだけ喧しかった子供たちの姿はすっかりなくなり、道場の床の間の前で師範代とゆらとが話しているだけだ。

「ああ、では、お言葉に甘えてそう致します。また、明日」

 俺は師範代に挨拶を済ませ、風呂敷包みを抱えると道場を後にした。

 彼女がちらっと俺を見たような気がした。けれど、それだけだった。

 俺は少しがっかりして、草履を突っかけた。





 道場の外に出ると、空気は何処か湿気を含み、重く澱んでいるように感じた。曇天からは今すぐにでも雨が降って来そうな気配だ。

 燦々と日の光が降り注ぐ日であれば良かった。この天気は人の気持ちまで陰鬱なものにしてくれる。

(確かに、俺は疲れているようだな)

 数か月前のことを思い出したのも、気持ちが沈みがちなのも、全部疲れのせいだ。国を追われても、行き着いた江戸で何とか生きてきた。一日一日をどうにか過ごしてきた。その間の疲れが大気の孕む湿気によって、俺の体と心を蝕んでいく。

(このままこの生活を続けて、俺はどうしたいというのか……)

 暗い思考に襲われ、俺はとうとう往来で立ち止まってしまった。元来それほど思い悩む性質ではない。けれど、この数か月のうちに己に起こった出来事は、やはり心身にとって厳しいものだったのだと思う。

 忙しなく行き交う人々は、そんな俺に構うことなく通り過ぎて行く。この世界で自分一人だけのような覚束ない感覚に捕らわれ、俺は初めて己の境遇を呪いそうになった。

「風間さん。どうしたの?」

 そんな時少し幼く聞こえる声が突然顔の下から聞こえて来た。ぎょっとして見下ろすと、俺の胸の辺りの高さに可愛らしい顔があった。

「わっ」と飛び退いてよく見ると、そこにいたのはゆらさんだった。

「え?何で……」

 彼女は帯刀し遠目に見れば少年のように見えるかもしれないが、間近で見ればやはり少女で、そんな彼女が目の前にいればやはり驚く。きらきらと星のように輝く瞳を向けられたら尚更どぎまぎしてしまった。

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