姫恋華〜ひめれんげ〜【改稿版】
「大丈夫?お嬢さん」

 呆けているゆらの肩を、おしずはぽんと叩いた。

「え?あ……。本当にありがとうございました。あの、お代金はまた払いますから、お家を教えてもらえません
か?」

 殊勝気に言うゆらに、お静はくっと笑うと、

「お嬢さん。この辺りの人間じゃないのね」
と言った。

「はあ。深川に来たのは初めてで……」

「だったら、ちょっとわたしの家によって行きなさいな。すぐそこだから」

 そういうと、おしずはゆらの返事も待たずに歩き出した。

「あ、おしずさん!」

 本当におしずの家はそこからすぐの所で、なかなか立派な門構えの屋敷だった。

 その門の横には、『深川剣術指南道場』と書かれた看板が掲げられている。

(あれ?この道場の名前、どっかで聞いたことがあるような……)

 ゆらは小首を傾げたが、おしずがさっさと門を入って行くので、慌てて後を追う。

 門を入ると、たちまち道場と思われる建物の方から、威勢のいい掛け声が聞こえてきた。

「おしずさんのおうちは道場なんですか」

「ええ。父が道場主なの」

 おしずは道場とは別の建物に入って行く。そこが母屋のようだ。

 薄暗い建物に入ると、空気がひんやりと冷たかった。

「ああ、寒い。春と言うのに、家の中はまだ冷えるわねえ」

 おしずが独り言のように言うのを、ゆらはぼんやりしながら聞いていた。

 この建物に入った瞬間、頭に霞がかかってしまったように意識がはっきりしない。

「……さん。お嬢さん?」

 揺すぶられ、はっとして顔を上げれば、おしずの心配そうな顔がそこにあった。

「大丈夫?お嬢さん」

「あ、ごめんなさい。何だかぼーっとしちゃって……」

 元気だけが取り柄のようなゆらには珍しいことだった。

「こちらに座ってて。今、白湯を持って来るわ」

 心配そうに眉を寄せながら言うと、おしずは玄関脇の一室にゆらを押し込んで、一人廊下を歩いて行った。

 そこは四畳半ほどの狭い部屋で、飾り気一つなく、普段はあまり使われない部屋のようだった。薄暗く、肌寒い。

 ゆらはぶるっと体を震わせた。

「なんか、変……」

 そう言えば、水戸にいた時も一度、こんなことがあったような気がする。

 忘れるくらい前の事だ。

 確か、水戸のおじいさまと一緒にいて。

 こんな風に薄暗くて寒い、古井戸の側だった。

(それから、何があったっけ……)

 ああ、そうだ。

 おじいさまの知り合いだという京のお公家さまが一緒だったんだ。その人は古井戸を見た瞬間から顔を強張らせて、何か文字がたくさん書かれた紙を手にした。

(そして、その人は、わたしに言ったんだ)

 何て?何て言ったっけ……?

 記憶が混濁する。そんなに昔の事ではない筈なのに、上手く思い出せない。

「お嬢さん?」

 また、おしずさんに肩を叩かれた。

「お医者を呼んだ方がいいかしら?」

「大丈夫。少し疲れただけで」

 おしずの差し出した茶碗を受け取り、白湯を飲めば、冷えた体が温まり、先程よりは幾分寒気もましになった。

「お嬢さん。名前はなんて言うの?」

 ゆらが少し落ち着いたのを見て、おしずが尋ねたのに答えると、

「ゆら……いい名前。気分が良くなったら、父に会ってもらえるかしら?」

「はい。もちろんです」
< 29 / 132 >

この作品をシェア

pagetop