姫恋華〜ひめれんげ〜【改稿版】
「まあ、待て。師範代」
「しかし」
「ゆらさまにも言いたい事があろう。まずはそれを聞いてからだ」
「……」

 師範代は不満そうだったが、師匠の意思に逆らう気はないのか、すっと身を引いた。

「さて、ゆらさま。こうして、この屋敷の主だった者が、ゆらさまの事を知った訳じゃが、あなたさまはどうしたいとお考えか?」

 柳生は寄る年波に勝てず、やや下がり気味になっている目尻を一層下げて、優しい目でゆらを見た。その目は、水戸のおじいさまがゆらに向けるのと同じ光を帯びていた。

(どうしたい……?)

 ゆらは、自分が何故今ここにこうしているのかを思い返してみた。

 自分が城を抜け出すようになった訳。

 それは、母の病に他ならない。

 決して逃れたいのではなかった。けれど衰えて行く母の姿に、自分の感情が追い付いて行かないという戸惑いはある。

 ゆらはぐっとおなかに力を入れた。どこまで上手く言葉に出来るかは分からなかったけれど、今まで自分の中でも処理し切れないでいた複雑な思いを吐露したのだった。

「自分の居場所が欲しい……。水戸ももちろん大好きだし、お城はわたしの家です。けれど、いつも何か落ち着かなくて、わたしの持っている以上の物を求められているような気がして……。
本当のわたしでいられる場所がほしいなって……。かあさまの看病をしたいと思っても、腰元たちが全部やってしまうでしょう?じゃあ、わたしがここにいる意味はいったい何なのって思ってしまう」

「ゆらさまがお城にいらっしゃると思うだけで、お母君さまは励まされるのではないかしら?」

 おしずが慰めるように言うと、ゆらはふるふると頭を振った。

「それが城下に出る理由か……。甘い」

 突然浴びせられた厳しい言葉に、ゆらは顔を強張らせた。

「師範代」

 おしずが嗜めるように言うのを視線で制すと、
「あなたが城を抜け出すことで、あまたの腰元や近習の侍が迷惑を蒙るということはお考えにならないのですか?母君のお役に立ちたいと思うのはけっこうだが、周りの迷惑も考えずに自分の思いを押し通すのは、我がまま以外の何物でもない」

 遠慮の一つもない物言いに、その場の空気が凍りついた。

 ゆらの顔は青ざめ、何かを言いかけてはやめているのか、唇がぷるぷると震えている。

 こほんと咳ばらいがして、その空気を動かしたのは柳生だった。

「まあ、師範代もいとけない姫君にあまり辛辣なことを言うものではない。だが、ゆらさま。師範代の言う事にも一理ある。それは、ご自分が一番よく分かっておいでだろう」

 柳生の優しい眼差しに励まされたのか、ゆらは青ざめたまま、こくりと頷いた。

「ふむ。では、ひとつ、わしの考えを聞いて頂こう。まず、ゆらさまはご自分が今何処にいるのか、ちゃんとお城の方に伝えること。それで、市中に出ることを禁じられたなら、わしがとりなして差し上げよう。
それから、もうひとつ。母君さまに、その日あったことを面白おかしく話して差し上げること。これは市中にお出にならなかった日にも、必ずされるがよい。この二つの事を守って頂ければ、わしはいつでもゆらさまにおいで頂きたいと思うている。……いかがかな?」
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