姫恋華〜ひめれんげ〜【改稿版】
 能を見ながらの宴席という事で、ゆらの前にも贅を尽くしたご馳走が並べられた。途中父と誰かが縁談がどうのと話をし始めたが、自分には関係ないことだと、ゆらは食べることだけに集中して大満足だった。

 宴席がお開きになると、将軍の「では、赤松自慢の桜を見てみよう」と御台所を誘って庭へと下りて行った。他の者もそれを合図に思い思いの時を過ごし始めた。

「姫さま。お庭に茶席が設けられているそうにございますよ」

 あやめのその言葉に誘われるように、ゆらも庭に出たが、草履を突っかけた途端脱兎の勢いで走り始めた。狭い輿に押し込まれ、宴席の間も大人しくしていた鬱憤がここに来て爆発してしまったのか。

「あ。姫さま、こらっ!」

 あやめの慌てた声も無視して走り去る、ゆら。

 何事かと振り返る名だたる大名たちに顔から火が出そうになりながら、あやめ以下腰元たちはゆらの後を追ったのだった。
 
 桜の刺繍の美しい打掛がどんどん遠ざかって行く。この日の為に御台所が特別にあつらえてくれた打掛であったのに、それをものともせず日々鍛えている健脚で疾走する。

 あやめたちがそれに追いつくはずはなく、後を追うあやめたちの目の前で、ゆらは脇のつつじの垣根に飛び込んだ。

「見失うてはならぬ!お大名の皆様が姫さまに気付く前に確保するのじゃ!」

 あやめの必死の叫びに、続く腰元たちは一斉に頷いた。

 彼女らはつつじの枝に引っかかっては悲鳴を上げながら、やっとの思いで垣根を越えると、そのあやめたちの目の前に若い侍が立っていた。

 垣根の中から現れたあやめたちに驚いた様子もなく、ただ一点を見つめたまま佇む侍。

 (あっ)と思って、あやめは立ち止まってしまった。その侍は紛れもなく、今回の宴の主催者である赤松だった。先程の宴席で、ゆらの給仕をしながら将軍と話す彼を見たから、まず間違いない。 

 そんな藩主が一人で立ち尽くしているというのにも驚いたが、何よりあやめの気がかりは、彼がゆらに気付いたかどうかだった。

 会釈をしながら通り過ぎるついでに彼の視線を追ってみれば、案の定彼の視線の先には、蝶のように振袖をひらひらさせながら走り去る姫の姿。

 彼もあれが将軍の姫であると気付いているかも知れない。あやめは誰何(すいか)を恐れ身を縮ませたが、彼は腰元たちに気付いた様子もなく走り去る姫の姿を追っていた。
 
 (もしや……)とどきりとしながら、赤松の脇を過ぎる。

 確かに、散り初めの桜の下を桜の刺繍を施した振袖が舞うさまは、幻想的で美しい。心奪われる殿方がいてもおかしくはない。

 当の本人に自覚は全くないようだが、傍から見て、ゆらはかなり美形な方だ。何処で、誰が、姫に懸想するかも分からないと、あやめは常日頃から思っている。

 けれど、その恋は前途多難だ。結局、ゆらも相手も実らぬ恋に苦しむだけで終わってしまうに違いない。

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