姫恋華〜ひめれんげ〜【改稿版】
 道場からは子供たちの賑やかな声がしていた。

 一歩入っただけで耳を覆いたくなるほどの喧騒で、その中にあって、床の間の前でにこにこと楽しげにしている柳生と、相変わらずの渋い顔の師範代は対照的だった。

 彼らの視線の先には輪になって飛び跳ねる子供たちと、総髪を一つに束ねた浪人者が竹刀を手に立っている。

「いい男でしょう?」

 おしずがそっと耳打ちしたのに、ゆらはぎょっとして、

「おしずさん、師範代は?」

「あら、それとこれとは別よ。いい男は目の保養でしょ?」

 言って、くすっと笑ったおしずに、ゆらは微妙な表情をして視線を浪人者に戻した。

 確かに彼は整った顔立ちの中に、どこか憂いを含んだ色気があり、痩身ながら程よく鍛えてある身体には隙がない。背は宗明や師範代とそう変わらないだろう。

 道を歩いているだけで女性の目を奪いそうな男だ。

 ゆらとて例外ではなく、彼を見ているだけで顔が火照ってくるようだった。

「わ、わたし、ちょっと顔洗ってきます」

「え。ゆらさま?」

 水で冷やすかしないとこの火照りはどうにもならないと、ゆらは道場のすぐ裏手にある井戸へ出て行った。

 ばしゃばしゃ顔を洗うと、ゆらは脇に置いた手拭いを取ろうと手を伸ばした。

「どうぞ」

「ありがとう」

(ん!?)

 手拭いを顔に当てた所で、ゆらは動きを止めた。

 誰が手拭いを渡してくれた?

 恐る恐る顔を上げたゆらは、そこに立つ人物を見て身を翻した。

「お待ちなさい」

 「引き留めるのに襟首を掴むなんて、ひどすぎる!」と抗議の声を上げたかったけれど、火に油を注ぐだけだとさすがに今までの経験から学習している。ゆらは大人しく、首元を掴まれた猫のように抵抗をやめた。

「まったく。出掛けるなら出掛けると、何故一言言って行かないんです?」
「だって!」
「……」
「だって、御台さまが縁談の話なんてするんだもん」
「……縁談?」

 襟首を掴む宗明の力が緩んだ。

「縁談て、誰の?」

「わたしのだよ!」

 不満そうに声を荒げるゆらに、宗明は混乱する頭を何とか叱咤して言葉を紡いだ。

「ならば、なおさらお城を抜け出すなんてだめでしょう?戻って、ちゃんと御台さまのお話をお聞きなさい」

「何で?宗明はわたしの味方じゃないの?」

「勿論そうです。けれど逃げてばかりでは何にもならないでしょう?」

「縁談なんて、話を聞くのも嫌だもん」

 小さく息をついた宗明の胸にも鈍い痛みが走る。

 来るべき時が来てしまったという思いが、冷静さを保とうと努力する気持ちを苛んでいく。

 この少女が、いつか相応の男の元へ嫁いでいくことは分かっていた。

 けれど、それは今でなくていい。

 もう少し。もっと長く。彼女の側で、彼女の事を見ていたかった。
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