姫恋華〜ひめれんげ〜【改稿版】
 新之助が長屋に帰ると、そこは夕方の喧騒で慌ただしい雰囲気だった。けれど、それはいつものことだ。井戸端でおしゃべりするおかみさんたちに会釈しながら、ぎしぎしとなる障子戸を開け部屋に入ると、部屋は暗く肌寒かった。

 脇に抱えた包みのぬくもりが、殊更有難く感じられた。

 夕餉にはまだ早い時間だったが、せっかくだからと小皿を出して包みを解いた。

 それから炭を起こし、火鉢に土瓶を掛ける。しばらくすると湯がしゅんしゅんと沸いてきた。それを急須に入れ、番茶を淹れた。

 新之助は下戸だから酒を嗜む習慣はない。ついでに言うと煙草もやらない。そのあたり、人目を引く整った外見とは違い、ごくごく真面目で地味な男だった。

 熱い番茶を一口すすり、まだ湯気の上がる小芋を一つ口に放り込んだ。

「うん、うまい」

 心がほっこり柔らかくなる。うすら寒い部屋にいるのに。心も体もほっかほか。

「恵まれてるな。俺」

 孤独の中で身を震わせる生き方も彼の人生の選択肢の中にあったはずだった。けれど、そうならなかったのは、出会った人々のおかげだろう。

 そう思うと、今日初めて会った少女のことが頭に浮かんだ。

 丸い大きな目に、きらきら輝く星を宿し、下町の子供たちにも負けないくらい元気で。

(あの子。どういう子なんだろう……)

 身なりは悪くなかった。あの侍がお付きの者なら、恐らく士分の身分ある家の子女なのだろう。

「俺とは関わらない方がいいんだ」

 不意に、そんな言葉が口をついて出た。

 それに自分自身はっとして口を噤む。

 そう。関わらない方がいい……。

 新之助は箸を置いて冷たい板間に仰向けに寝転がると、目を覆うように片方の腕を顔に乗せ深い溜め息を吐いた。


 その頃から軒を雨粒が叩き始めた。

 次第に強くなる雨の音を聞いていると、新之助の脳裏に思い出したくもない光景が甦ってきた。

 ぎゅっと瞼を閉じてそれを頭から追い出そうとしても、それは彼の中に留まり続けた。



 血にまみれ、畳に横たわる父母。

 襖や障子にも飛び散る血飛沫。

 立ち尽くす自分。

 物陰から繰り出される白刃。

 手傷を負いながら夜の闇の中へと逃げ出した……。



 赤と黒で染め抜かれた記憶。

 新之助は吐き気を催して土間へと転がり出ると、土間に這いつくばったまま嗚咽交じりに胃の中の物を吐き出した。

(ああ、せっかくの煮物が……)

 そんな冷静な考えも浮かんできて、新之助は可笑しくなって声を出して笑っていた。
 
 涙を流しながら笑っている。

 そんな自分が怖ろしくなった。

(壊れて行く……)

 

 彼を覆う闇は、日を追うごとに濃く深くなっていくようだった……。




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