姫恋華〜ひめれんげ〜【改稿版】
 遠くで大奥を廻る「火の用心」の声が聞こえてくる。

 ゆらは褥(しとね)の上で掛物を引きかぶり、膝を抱えて座っていた。

 朝、樫の木の下で宗明に訴えた、部屋に出る幽霊。

 昨晩突然に枕元に現れ、ゆらはその夜を一睡も出来ずに過ごしていた。

 もし今夜も出たなら、二日続けての寝不足。いくら体力に自信のあるゆらでも、さすがに応えそうだった。

 昔から大奥には物の怪の噂が絶えないけれど、まさか自分の前に出てくるとは思ってもみず、怖がりなゆらはもう泣きそうだ。

 いくら宗明が障子の向こうの縁で宿直とのいをしていると言っても、御簾を隔ててあやめの他二人の腰元が不寝番(ねずばん)をしていると言っても、簾中にあるのはゆらだけだ。

(はあ。怖い……)

 何度目かもう分からない溜め息を吐いて、脇に置いた懐剣を引き寄せた。

 お守り刀でもある懐剣は、水戸にいた時におじいさまに頂いたものだった。鞘には飾り気がないものの、色鮮やかな組紐が幾重にも巻かれている。

「肌身離さず持っているように」

 そう言って渡された懐剣だった。

(三郎太もいるし、大丈夫だよね)

 掛物の下から目だけを覗かせて、ゆらは部屋を見渡した。

 深夜。用心も兼ねて火は極力使わないようにしている。頼りは月明かりだけだ。
 満月に近い月は、明るく室内を照らしていた。

 「火の用心」の声も聞こえなくなった頃。

 室内の温度が急に下がったような気がして、ゆらはぶるっと身震いした。

(来た?)

 そっと首を回して見れば、枕元に昨夜と同じ黒い影。
 こちらを窺うように、そこに浮かんでいた。

「あ……三郎太」

 声を上げたが、掠れて思うように声が出せない。

 座ったまま後退り背中が御簾に当たると、それをからげて腰元を呼ぼうとした。

「三郎太を呼んで!」

 だが、起きて番をしている筈の三人は、その場に横たわり眠っていた。

「何でよ!」

 振り返ると、枕元にいた影が褥の上にいた。

(近付いてる?)

 懐剣を抜き胸の前に構えると、ゆらはありったけの力を振り絞って悲鳴を上げた。

「きゃああああ!」

 障子が音を立てて開けられた。

「ゆらさま!」

 頼もしい男の声。

 影がすっとゆらの目の前に飛んで来た。

「……」
「え?」

 何か喋った……。
 目を見張った時。

 ザンッ!
 白刃の描く残像と共に、影がゆっくり真二つに割れた。

 宗明が御簾ごと切り払ったのだ。

「ギッ」
 影は小さく叫ぶと霧散した。

 本当に跡形もなく消えてしまった。

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