姫恋華〜ひめれんげ〜【改稿版】
「久しいの。直隆」
新之助は平伏したまま瞠目した。
それは彼が捨てた名だったからだ。
「この名で呼ばれるのは久方ぶりか。面を上げよ」
青ざめた顔を上げた新之助に、恰幅の良い初老の男が穏やかな眼差しを向けている。
「わしの招請に応じてくれて礼を言う」
「……」
「元気そうで何よりだ」
「まこと、近藤さまでございましたか……」
新之助が独り言のように呟いた言葉に、近藤は微かに笑んだ。
「斬られるとでも思うたか」
「それも仕方ない身の上でございます故」
「ふむ……。さぞ、辛い思いをしたであろうな。直隆よ」
「……」
「わしは、そなたをまだ稲垣家の嫡男と思うているぞ」
「え?」
「まあ、一杯やれ」
盃を渡され、酒を注がれる。
なみなみと酒が入った盃に、恐る恐る口を付けた新之助。
途端に渋い表情で盃を置いた。
「お前の父はいける口だったがな」
残念そうに言われれば、とても申し訳ない気持ちになって、新之助は頭を下げた。
「まあ、そなたもまだ若い。これから慣れて行けば飲めるようになるだろう」
はははと高笑いをした近藤に、新之助は渋い表情のまま首を振った。
「まあ、良い。もそっと近うに」
行燈の灯りに浮かび上がる近藤の顔は相変わらず穏やかだ。
けれど空気がぴんと張り詰めた。
新之助がにじり寄ると、
「今日来てもらったのは他でもない。そなたの力を貸してほしいのだ」
と囁くように言った。
「……」
「わしは甥であるそなたを見捨てることはないぞ。直隆」
新之助は強張った顔で、目尻に笑い皺を刻んだ近藤の顔を凝視している。
目の前の人物の真意を探るかのように。
「私は、脱藩した身でございます」
「それは、わしが手を回し、なかったことになっている」
「え?」
新之助は言葉を失った。
「そなたはまだ我が藩の藩士。稲垣家が嫡男、直隆だ」
「伯父上……」
「名を捨て、国を捨て、仇を討とうとでも思ったか?」
「……」
「そなたは聡い。己の存在を消すことで、あれ以上の事態の悪化を防ごうとでも思ったのであろう」
「……」
「殿も、それをよくお分かりだ。安心するがいい。国許にはまだ、お前の帰る場所はある」
「……姉は。姉は息災ですか?」
「それも安心するがいい。殿が厳重に匿われ、無事臨月を迎えられた」
「そう、ですか……」
ほっと息をついた新之助に、近藤が目を細めた。
「直隆よ。そなたにはまだ、殿への忠義の心があるか?」
「それは……もちろん。私が今あるのは、全て殿がいてくださったからこそ」
「ならば、その忠義。今一度見せてみよ」
「……私に、何をしろと」
すると、近藤は新之助にさらに顔を寄せ、耳元で囁いた。
新之助は平伏したまま瞠目した。
それは彼が捨てた名だったからだ。
「この名で呼ばれるのは久方ぶりか。面を上げよ」
青ざめた顔を上げた新之助に、恰幅の良い初老の男が穏やかな眼差しを向けている。
「わしの招請に応じてくれて礼を言う」
「……」
「元気そうで何よりだ」
「まこと、近藤さまでございましたか……」
新之助が独り言のように呟いた言葉に、近藤は微かに笑んだ。
「斬られるとでも思うたか」
「それも仕方ない身の上でございます故」
「ふむ……。さぞ、辛い思いをしたであろうな。直隆よ」
「……」
「わしは、そなたをまだ稲垣家の嫡男と思うているぞ」
「え?」
「まあ、一杯やれ」
盃を渡され、酒を注がれる。
なみなみと酒が入った盃に、恐る恐る口を付けた新之助。
途端に渋い表情で盃を置いた。
「お前の父はいける口だったがな」
残念そうに言われれば、とても申し訳ない気持ちになって、新之助は頭を下げた。
「まあ、そなたもまだ若い。これから慣れて行けば飲めるようになるだろう」
はははと高笑いをした近藤に、新之助は渋い表情のまま首を振った。
「まあ、良い。もそっと近うに」
行燈の灯りに浮かび上がる近藤の顔は相変わらず穏やかだ。
けれど空気がぴんと張り詰めた。
新之助がにじり寄ると、
「今日来てもらったのは他でもない。そなたの力を貸してほしいのだ」
と囁くように言った。
「……」
「わしは甥であるそなたを見捨てることはないぞ。直隆」
新之助は強張った顔で、目尻に笑い皺を刻んだ近藤の顔を凝視している。
目の前の人物の真意を探るかのように。
「私は、脱藩した身でございます」
「それは、わしが手を回し、なかったことになっている」
「え?」
新之助は言葉を失った。
「そなたはまだ我が藩の藩士。稲垣家が嫡男、直隆だ」
「伯父上……」
「名を捨て、国を捨て、仇を討とうとでも思ったか?」
「……」
「そなたは聡い。己の存在を消すことで、あれ以上の事態の悪化を防ごうとでも思ったのであろう」
「……」
「殿も、それをよくお分かりだ。安心するがいい。国許にはまだ、お前の帰る場所はある」
「……姉は。姉は息災ですか?」
「それも安心するがいい。殿が厳重に匿われ、無事臨月を迎えられた」
「そう、ですか……」
ほっと息をついた新之助に、近藤が目を細めた。
「直隆よ。そなたにはまだ、殿への忠義の心があるか?」
「それは……もちろん。私が今あるのは、全て殿がいてくださったからこそ」
「ならば、その忠義。今一度見せてみよ」
「……私に、何をしろと」
すると、近藤は新之助にさらに顔を寄せ、耳元で囁いた。