姫恋華〜ひめれんげ〜【改稿版】
 小料理屋を出た新之助は、少しふらつく足取りで家路を歩いていた。

 盃にたった一杯飲んだだけで、これだ。

「もう当分、酒はいい……」

 早く帰って頭を整理し直そう。

 佐伯の屋敷では、用心棒を採用するに当たって面接を行うらしい。

 それに受からなければ意味がない。

(師範代に手合せの回数を増やしてもらおうか)

 いや。それは無理だ。

 道場の人たちに事情は話せない。

 もし用心棒として佐伯の屋敷に詰めることになれば、道場も辞めなくてはならないだろう。

 世話になった人たちを騙すように姿を消さなくてはならないのだ。

 新之助の胸は痛んだ。

「だが、仕方ない」

 あの晩秋の夜に、自分は世の中の暗部で生きて行くことを選んだのだ。

 この下町で過ごした二カ月は夢のようなもの。

 また現(うつつ)に戻って来ただけだ。

 新之助は顔を上げた。

 長雨はようやく止み、夜空には満天の星。

 その輝きに一人の少女の面影が重なった。

「さよならだ」

 己に言い聞かせるように呟くと、新之助はまた歩き出した。

 この世の中に満ちる光の、その一筋も届かない闇に向かって。





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