姫恋華〜ひめれんげ〜【改稿版】
「ゆらさん。おしずさんのことは俺が何とかするから」
新之助も宗明を睨んだまま、声だけ部屋の外のゆらに向けた。
「う、うん。よろしくお願いします」
「ゆらさまは木戸の方へ。私は少しこの者と話がある」
「了解しますた」
ぴしっと背筋を伸ばして、宗明の背中に滑舌の悪い言葉を掛けると、ゆらは素直に木戸の方へ足を向けたのだった。
それを気配で感じながら、宗明はここでようやく刀を引いた。
「どういう経緯で、ゆらさまをここに?」
太刀を鞘に戻しながら、宗明は詰問した。
「街で偶然会って、おしずさんのことを相談したいっていうから」
まるで浮気現場を押さえられた間男の言い訳みたいだ。
なんとなく自分が憐れになりながら、新之助は事の顛末を宗明に話して聞かせた。
「成る程。では、ゆらさまはこの一件から手を引くということでいいのだな」
「え?ああ、そういうことになりますか……ね?」
明日道場に行くのは新之助一人だが、ゆらの性格から言って、おしずが見つかるまで大人しくしているとは思え
ない。
(まあ、それも、俺には関係のないことになってしまうんだけど)
明後日には佐伯の屋敷に入る。
そうなると、新之助が彼らと関わることは恐らく今夜が最後だ。
(だから、これでいいんだ)
この目の前の御仁とも対峙することもなくなる。
(それでいい)
どこか達観した心持ちで、新之助は深々と頭を下げた。
「ゆらさんを自宅に呼んだことは謝ります。もう会うこともないでしょう。それで容赦頂けませんか」
そう言われた宗明は随分拍子抜けした顔をしていた。
まさか頭を下げられるとは思っていなかったのだ。
「いや。面を上げられよ。ゆらさまとてお悪いのだ」
「彼女を叱らないでやってくださいね。おしずさんのことが心底心配だっただけですから」
「ああ。そうだな……」
苦い表情をして頷いた宗明の複雑な心情を、新之助は手に取るように分かっていた。
仕える少女の自由奔放な振る舞いに辟易しながらも、彼の振る舞いからはそれを許す寛容さも垣間見える。
そして姉とも慕う女性の失踪に小さな胸を痛めている彼女の気持ちを思いやりながらも、仕える者として、彼女の行動を制限しなければならない彼の葛藤も透かし見えていた。
(ゆらさんは、いい人に側にいてもらっているんだな)
新之助は主君に仕えていた頃の自分の心情をも思い出していた。
(だからこそ、俺はゆらさんと会ってはいけないんだ)
従者が願うのは、ただ偏に主の平穏だけだからだ。
その二人の間には、何人も割って入ることは出来ない。
「今宵限りで失礼しますよ」
「……ああ。今宵限りで、な」
新之助の言葉に強い意志を感じたのか。
宗明は小さく頷くと踵を返し、木戸の方へと足を向けた。
月もない暗い夜だった。
まだまだ明けきらない梅雨の真っただ中。
空気はじめじめと湿気を帯び、人の心と体を蝕んでいく。
「明日はまた雨かな……」
しんと静まり返った長屋。
二人の去った障子戸の外に立ち尽くしたまま、新之助は長いこと物思いに沈んでいた。
新之助も宗明を睨んだまま、声だけ部屋の外のゆらに向けた。
「う、うん。よろしくお願いします」
「ゆらさまは木戸の方へ。私は少しこの者と話がある」
「了解しますた」
ぴしっと背筋を伸ばして、宗明の背中に滑舌の悪い言葉を掛けると、ゆらは素直に木戸の方へ足を向けたのだった。
それを気配で感じながら、宗明はここでようやく刀を引いた。
「どういう経緯で、ゆらさまをここに?」
太刀を鞘に戻しながら、宗明は詰問した。
「街で偶然会って、おしずさんのことを相談したいっていうから」
まるで浮気現場を押さえられた間男の言い訳みたいだ。
なんとなく自分が憐れになりながら、新之助は事の顛末を宗明に話して聞かせた。
「成る程。では、ゆらさまはこの一件から手を引くということでいいのだな」
「え?ああ、そういうことになりますか……ね?」
明日道場に行くのは新之助一人だが、ゆらの性格から言って、おしずが見つかるまで大人しくしているとは思え
ない。
(まあ、それも、俺には関係のないことになってしまうんだけど)
明後日には佐伯の屋敷に入る。
そうなると、新之助が彼らと関わることは恐らく今夜が最後だ。
(だから、これでいいんだ)
この目の前の御仁とも対峙することもなくなる。
(それでいい)
どこか達観した心持ちで、新之助は深々と頭を下げた。
「ゆらさんを自宅に呼んだことは謝ります。もう会うこともないでしょう。それで容赦頂けませんか」
そう言われた宗明は随分拍子抜けした顔をしていた。
まさか頭を下げられるとは思っていなかったのだ。
「いや。面を上げられよ。ゆらさまとてお悪いのだ」
「彼女を叱らないでやってくださいね。おしずさんのことが心底心配だっただけですから」
「ああ。そうだな……」
苦い表情をして頷いた宗明の複雑な心情を、新之助は手に取るように分かっていた。
仕える少女の自由奔放な振る舞いに辟易しながらも、彼の振る舞いからはそれを許す寛容さも垣間見える。
そして姉とも慕う女性の失踪に小さな胸を痛めている彼女の気持ちを思いやりながらも、仕える者として、彼女の行動を制限しなければならない彼の葛藤も透かし見えていた。
(ゆらさんは、いい人に側にいてもらっているんだな)
新之助は主君に仕えていた頃の自分の心情をも思い出していた。
(だからこそ、俺はゆらさんと会ってはいけないんだ)
従者が願うのは、ただ偏に主の平穏だけだからだ。
その二人の間には、何人も割って入ることは出来ない。
「今宵限りで失礼しますよ」
「……ああ。今宵限りで、な」
新之助の言葉に強い意志を感じたのか。
宗明は小さく頷くと踵を返し、木戸の方へと足を向けた。
月もない暗い夜だった。
まだまだ明けきらない梅雨の真っただ中。
空気はじめじめと湿気を帯び、人の心と体を蝕んでいく。
「明日はまた雨かな……」
しんと静まり返った長屋。
二人の去った障子戸の外に立ち尽くしたまま、新之助は長いこと物思いに沈んでいた。