晴れた空、花がほころぶように
11 彼の欲しい答え

 真夜中を過ぎて。
 私はまた家を抜け出す。
 あいにく月は見えなかったから、いつも通りに家の裏の通りから神社へと向かう。
 真っすぐに歩いていくと、神社へ向かう角の所には、彼が立っていた。

 私を、待っていてくれたんだよね。

 そう気づいたら、また嬉しくなった。
 少し足早に彼の所に向かう。
「天野くん」
「よう」
 短く言うと、彼はすぐに神社に向かって歩き出した。
 私も続く。
「結果、出たな」
 彼が小さく言った。
「うん。すごい順位上がったよ」
「よかったじゃん」
「ありがとう。これで、お母さんにピアノ休めって言われなくて済む」
「言われてんの? なんで?」
「来年受験だから。一応合格圏内だけど、親としては不安みたい。ほら、私理数系ちょっと苦手だからそれもあって」
「ふうん。高森も大変なんだな」
 境内へ向かう石段を登りきると、風が吹いて心地よかった。
 私達は、また石段のてっぺんに座り込んだ。
「天野くん、三位だったね。すごいね」
「すごいのかな。いっつも大沢には勝てないけどな」
 上位に入っても、あまり彼は嬉しくなさそうだった。
「俺よりも、高森のほうがすごい。いきなり十位以内に入ったじゃんか」
「あ、それは天野くんのおかげだよ。天野くんのおかげで、数学の勉強の仕方がわかった気がする。期末も頑張れそう」
「そんなに勉強して、高森は将来何になるんだ?」
 どきっとした。
 それは、私が真夜中に家を抜け出して、彼に会うきっかけだったから。
「あのね、私、ピアノ弾いていられる職業に就きたいの。だから――音大に行きたいなって」
 それは、秘密にしていた私の夢だった。
 恥ずかしくて、誰にも言えなかったこと。
 でも。
「すごいな。高森のピアノ、上手だからなれると思う」
 彼はとても簡単に、私を肯定してくれる。
 決して、私を否定しないでくれる。
 だから、私は彼が好きなのだ。
「ありがとう。天野くんに教えてもらったおかげで、数学もがんばろうって気になれた。私にも、何かできることないかな」
 その言葉に、彼はきょとんとした。
「音楽、教えてもらってるじゃん」
「それ以外に」
 私はちょっと食い下がってみた。
「だって、嬉しいの。私が大好きなもの、天野くん、笑わないで聞いてくれたから。だから、私も天野くんに何かしてあげたいの」
 その言葉に、彼は、目を逸らした。
 何かを、考えているようだった。
 それから、もう一度こちらを見た。
「じゃあさ、楽譜、くれないか」
「え?」
「ほら、あの、『主よ、人の望みの喜びよ』の楽譜。あれがいい」
 拍子抜けした。
「そんなのでいいの?」
「だって、練習したら俺でも弾けるんだろ」
「天野くん、ピアノ、弾きたいの?」
「うん」
「なんで?」
「だって、高森、ピアノ弾いててすごく楽しそうだから。一年の時からずっと」
「え?」
 一年の時から。
 その言葉に、私は驚いていた。
「ホントはずっと、寝てなかったよ。聞いてたんだ。こんな綺麗なピアノ弾くのはどんなヤツなんだろうって、気になってた」
 彼は、少し照れたように笑った。
「俺、あんたのピアノ、好きだよ」
「天野くん――」
「聞いてると、すごく気分が良くなる。音楽の時間に聴く曲とか、そんな風に思ったこと一度もないけど、高森が弾くピアノは、もしかしたら、ホントに神様がいるんじゃないかなって思う時がある。それは、きっと高森が神様を信じてるからなんだな」
「――」
 言葉が返せなかった。
 彼は、どうしてこんなにも真っ直ぐに、私の心がわかるのだろう。
 私がピアノに託した願いを、祈りを、間違えずに聴き取ってくれる人――それが、天野空良なのだ。
 嬉しさで、涙が出そうになる。
 大声で、叫びだしたい。
「――じゃあ、楽譜持ってくるね」
 叫ぶ代わりに、私はそう返した。
「うん。もう帰ろう」
 そう言うと、彼は立ち上がった。
「うん」
 本当は、帰りたくない。
 彼と、ずっと一緒にいたい。
 その声を、いつまでも聞いていたかった。
 石段を下りながら、
「天野くんは、高校卒業したら、どうするの?」
 そう聞いた。
「俺は、高校には、行けないかも」
 驚いて彼を見る。
「どうして?」
「だって、きっと親父金出さないと思う。今だって、諸費払うの嫌がってるし。みんなより、払う金額少ないのにな」
 石段を下り終えて、立ち止まって、彼は私の方を向いた。
「高森はさ、勉強して、高校に行って、音大に行くんだろ? きちんと将来のこと考えてがんばってる。高森はなりたいものに、きっとなれるよ」
 でも、自分はそうじゃないと、言っているように聞こえた。
 未来を夢見ることを諦めていた。

「天野くんだって、なれるよ」

 言葉が、口をついて出た。
「勉強だってすごくできるし、なりたいものに、なんだってなれるよ」
 言葉にすると、何だか嘘のように響いた。
 でも、私の真剣な顔を見て、彼は小さく笑った。
「別に、俺は好きでやってるわけじゃないんだ。問題解いてれば時間が過ぎるからやってるだけ」
「――」
「じいさんが言ったんだ。することないなら勉強しろって。勉強してたら、時間はあっという間に過ぎるって」
 彼は上着のポケットに手を入れた。
「ずっと解けない問題を、考えるのに疲れたからさ」
「解けない、問題?」
「なんで、俺は親父に嫌われてんだろうなとか、なんで、親父は酒ばっか飲むようになったのかなとか、なんで、母さんは死んだのかなとか、中学入る前は、そんなことばっか考えてたんだ。母親は、俺が小学校に上がる前に病気で死んだんだ。それから、引っ越しを繰り返して、親父が再婚して、すぐ離婚して――」
 そう話す彼は、それまでと違って遠くに感じた。
 彼の世界に、私は入れない。
 それは今も、彼が解けない問題を解いているからなのだ。
「――」
 私は咄嗟に、彼の腕に触れた。
 彼が、私を見る。
「あのね、まだ、その時じゃないんだと思う」
「え?」
「天野くん、今は譜面読めるよね」
「うん。高森が、教えてくれたから」
「私も初めて譜面を見た時、先生の説明聞いても全くわからなかった。今では全然読めるし、なんでわからなかったのかも覚えてない。それと同じで、今解けない問題も、もっと後になってから解ける時が来るよ」
「高森みたいに?」
「そう。だって、解けない問題なんて、きっとないと思うから」
 もっと私達が大人になった時、笑って思い返せる日がきっと来る。
 だから、今はそれを無理に解こうとして欲しくなかった。
 彼は少しの間、じっと私を見ていた。
「そうか。今はまだ、解けないだけか――」
 小さく、彼が呟く。
「そうだよ、きっと」
 私は、繰り返す。
「すごいな、高森は」
「え?」
「なんか、すとんと来た。もやもやしてたのが」
 その言葉に、私はほっとした。
 伝えたいことは、たくさんあるのに、言葉にするとその半分も伝わらないような気がしてしまう。
 でも、彼は、私の思いを言葉にしても、伝えたいことを正しく感じ取ってくれる。
 だから、私は彼と話していたいと思うのだ。
 美しい声で、嘘のない美しい言葉を響かせる彼が好きだった。
 帰り道、彼の顔は明るく見えた。
 そして、近くに思えた。
 家の裏に着いた時、
「花音」
 彼は、小さく、私を呼んだ。

 歌の題名ではない、私の名前を。

 それだけで、胸がいっぱいになった。
「またな」
「うん、おやすみ――空良」
 最後に小さく、付け足すように言った名前を、空良も聞き取った。
 ずっと呼んでみたかった名前。
 美しい、音楽のような名前。
 暗かったけど、空良は笑ったような気がした。
 片手を上げると、空良はもと来た道を戻っていった。

 心の中で、空良の声を繰り返す。

 花音。

 空良が呼べば、私の名前は音楽のように美しく響く。
 私が呼んだら、空良もそんな風に思ってくれるといい。





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