晴れた空、花がほころぶように

 次までの簡単な練習法を教えたら、空良は真剣に聞いてくれた。
 右手と左手がこんなに早く弾けるなら、来週あたりから、両手での弾き方も教えてもいいのかもしれない。
 そういうと、空良は嬉しそうに笑った。
「練習した甲斐があった。家で練習する時間たくさんあったんだ。親父、一昨日から帰って来てないんだ。仕事か何かだと思うけど」
 曖昧に答えるのは、きっと空良自身何も言われていないからなんだろう。
 でも、私は正直ほっとした。
 お父さんが帰ってきて、また空良が殴られるのは嫌だった。
「お父さんいないんでしょ。ごめんね。今日ぐらいは外に出ないで家でゆっくりしてればよかったね」
 私のために、わざわざ小雨の中、家まで来させてしまった。
 申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
 でも。
「やだよ」
 空良は即答した。
「え?」
「だって、そしたら花音と会えないじゃん」
 思いがけない空良の言葉に、私は嬉しいより先に驚いてしまった。
 でも、空良はそれを別の意味にとったらしい。
「俺と会うの、めんどくさい?」
 その言葉に、私は慌てて否定する。
「違うよ。私は――毎日会いたいけど、空良が外で一人でいるのが嫌。ゆっくり休んでほしいんだよ」
 私といられる時間は、ほんの少ししかない。
 それ以外の時間は、空良は一人ぼっちで過ごさなければならないのだ。
「一人じゃないよ。花音がいるじゃん」
「空良……」
「花音がいるから、一人じゃない。あんたといるの、楽しいから」
 心が、震える。
 どうしよう、泣き出したい。
「親父といても、ただそこにあるだけの置物みたいな気分だった。食費も俺が催促しなきゃ出してもらえなかったし、家にいても酔ってる時のほうが多いから部屋に籠ってるしかないし。こういうのを、寂しいって言うんだな。いつも寂しかったのかな。でも、今はそんな気持ち感じないんだ」
 空良が、静かに笑って言う。
 その顔を、私は食い入るように見つめてた。
 何一つ聞き逃さないように。
 そうしないと、泣いてしまいそうだったから。
 独り言みたいに話していた空良が、私の視線に気づく。
「ガン見しすぎ」
 言われて、私は慌てて視線を逸らした。
 同時にほっとした。
 溢れそうだった気持ちが、静まっていく。
 もう一度視線を戻した時、今度は、空良が私を見つめていたことに気づいた。
「なんか、俺ばっかしゃべってるけど、俺のこんな話、聞いてて楽しい?」
 正直、楽しいとは思えなかったが、彼が話すことなら何でも聞きたかった。
 私の微妙な表情を見て、彼は小さく笑った。
 私は、空良自身のことを知りたいけれど、それ以上に、空良の声を聞いているのが好きだった。
「花音は、ピアノのこと話す以外は、あんまりしゃべんないんだな」

 それは違う。
 私は空良の声を聞いていたいのだ。

 やわらかで優しい、ちょっと低い響きを、私は音楽を愛するようにずっと聞いていたいと思っていた。
 私がそう言うと。
「変なやつ」
 彼はそう言うが、言葉どおりの響きはなかった。
 いつもみたいに照れたような、困ったような、温かな感じがした。
 空良の左手が、私の右手に触れている。
 重なっているわけじゃない。
 ただ、ベッドについた互いの手の両端が、触れているだけ。
 わずかなぬくもりが、確かにそこにある。

 それを感じることが、どれ程幸せか、空良は知っているだろうか。

 それは、私の中にしみこむようにゆっくりと伝わる感情だった。
 ほのかに香る花のような、けむる霧雨のような、音もなく静かな、そんな感情だった。
 そっと触れる指の端が、ただ嬉しかった。
 この想いだけで、他には何もいらないとさえ思った。

 こんな想いを、私はずっと知らなかった。

 空良を知って初めて、私は音楽以外に、こんなにも温かく美しい世界があることを知った。
 一瞬一瞬が大切で、触れていたいのに、見逃したくないのに、壊してしまうことに戸惑って、それ以上は踏み込めない。
 それでも、諦めることはできなくて、そっと、静かに、近づいていく。
 きっと空良もそうだろう。
 私達は宝物をそっとしまいこんでいるように、ただ互いを互いに自分の世界へ閉じこめた。

 この想いを恋と呼ぶなら、恋とはなんて純粋で汚れなく、幼いのだろう。





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