晴れた空、花がほころぶように
15 壊れていく世界
石段を駆け上がると、空良はいつものように階に座っていた。
走ってきた私に、少し驚いたような顔で、立ち上がって空良も走ってくる。
「そ――」
「また追いかけられたのか?」
石段を駆け上がったせいで、私の呼吸は乱れ、上手く声が出せなかった。
「ちが――待っ、て」
私は一生懸命呼吸を整える。
いつもは無表情に近い空良の顔は、少し慌てているようで、不謹慎だけど嬉しかった。
「違うの、早く、来たくて、走って、きたの」
呼吸を整えながら、それだけ、言えた。
「なんでそんなに、早く来たかったんだ?」
訝しげな空良の問いに、私は短く答えた。
「会いたかったから」
「え?」
空良は聞き返した。
だから、私はもう一度答える。
「空良に、会いたかったから」
私は、手を伸ばして、空良の左頬に触れた。
指先が触れた時、空良の身体がほんの少し、震えたのがわかった。
「ごめんね。何にもできなくて」
「――」
「それでも、会いたかった」
「――」
空良の手が、ゆっくりと、頬に触れる私の手に重なった。
沈黙が続く。
それでも、美しい音楽が聞こえるような、完璧な私達だけの世界だった。
声に出さなくても、互いの気持ちがわかるような気さえした。
それなのに。
「前から怪しいと思ってたけど、ホントだったんだな」
背後からの突然の声に、私達の世界は乱された。
空良が顔を上げ、私が後ろを振り返ると、石段のすぐのところに、東堂くんが立っていた。
「――」
どうして東堂くんがここにいるのか、わからなかった。
ここは、私と空良だけの場所なのに。
ゆっくりと、東堂くんが近づいてくる。
「大人しい顔して、高森もやるよなあ。どうやって天野をたらしこんだんだよ。まだはやいんじゃないの」
そう言う東堂くんの顔は、怒りで歪んで見えた。
動けない私を、空良が背後に庇ってくれた。
それがまた、東堂くんには面白くなかったらしい。
さらに顔が歪んだ。
「お前、何で高森といるんだよ。教室ではだんまりきめてるくせに。こんなところで二人だけで何してるんだよ」
「俺達が何しようが、お前に関係ないだろ」
感情のない、低い声が空良から響いた。
その声音の冷たさに、私は驚いた。
「――」
東堂くんも、冷たく低い空良の言葉に、驚きを隠さなかった。
「け、ケンカばっかりしてるやつが、高森に近づくなよ! 高森が大人しくて何にも言えないのをいいことに脅して言うこと聞かせてるのか? お前みたいな不良と一緒にいていいことなんか一つもないだろ!!」
一方的な東堂くんの言葉に、私は驚きで何も言えなくなってしまっていた。
ただ、心の中は悲しさと怒りでぐるぐるしていた。
「――」
何も言わない空良の表情は見えなかった。
だが、不意に空良が前に進み出た。
東堂くんに向かって。
そして。
空良の拳は、東堂くんのみぞおちに見事に入った。
あっという間だった。
東堂くんは膝をつき、その場で吐きだした。
すえた匂いが、鼻をついた。
それを見下ろしながら、
「今度俺やこいつに余計な口聞いたら、腹だけじゃすまさねえ」
呟くように低く、でもはっきりと、空良は言った。
「もうここに来るな。妙な噂が立ったら、それが誰でも、お前を殴る」
殴られて吐いたことにびっくりしたのか、一瞬、東堂くんは脅えた目で空良を見た。
「わかったのかよ、おい」
「わ、わかったよ、俺が悪かった。誰にも言わない」
ふらつきながら立ち上がると、東堂くんは後ろを振り返らずに逃げるように石段を下りていった。
「――」
沈黙がやってくる。
振り返った空良は、いつもと同じように見えたけど違っていた。
私はまた、空良がこんなに近くにいるのに遠くに感じた。
遠い。
空良が、遠すぎる。
どうしてこんな風に感じてしまうんだろう。
私を見る空良の目もさっきまでとは違うように見えた。
「俺のこと恐い?」
咄嗟に、首を横に振る。
信じていないように、空良は顔を歪めた。
「帰ろう――」
一歩後ずさった空良の手を、私は咄嗟に捕まえた。
手を繋いで、空良を捕まえておかないと、もっと離れて、遠ざかっていってしまうような気がした。
空良は驚いたように、私が掴んだ手を見つめた。
どちらも、何も言わなかった。
互いに、それ以上どうしていいかもわからなくなった。
壊れてしまいそうな私達の世界を、どうにかしたいのにできないもどかしさが募る。
「――」
私は何だか私の知らない空良の一面をまた知ってしまったような気がして、悲しかった。
その世界は、私には遠すぎて、決して手が届かないような気がした。
空良は、いったいいくつそんなところをもっているのだろう。
でも、それを正直に空良に告げることはしなかった。
空良が言いながら、傷ついているのがわかったから。
だから。
違う言葉でごまかした。
空良が、知らない人みたいで少しだけ驚いた。
そう言うと、空良は視線を落としたまま、少し黙っていた。
「俺は――」
そのまま動かない空良を、私は促した。
「無理に話さなくていいよ。空良の言う通りだね。今日はもう帰ろ?」
私は、何でもないことのように明るく言ったけれど、その響きはどこか嘘めいて聞こえた。
離れかけた私の手を、今度は空良が掴んだ。
そのまま、歩き出す。
「空良?」
咄嗟のことで、わけがわからない。
神社の横の木造の小屋へと向かっていた。
木戸を乱暴に開けて、空良は中に入った。
引きずられるように、私も中に入る。
引き戸が閉められると、中は天井に近い天窓の古いガラスからもれる明かりだけで、もう薄暗かった。
灯りをつけようとした私は、手を伸ばす前にいつも座って勉強していた板の間に座らせられた。
「空良――?」
逆光で、空良の表情が見えない。
そのまま、空良が近づいてくる。
唇が、触れた。
驚いて思わず両手をついて体を引いた。
でも、板の間に片膝をついて、空良がもう一度近づいてきた。
「怖くないなら、逃げるな」
それが、私の動きを止めさせた。
怖がっているのは、私じゃない。
空良が、怖がっている。
私が、空良を怯えさせている。
でも、どうして?
「空良、ちが――」
板の間に押し倒されて、もう一度、唇が重なった。
でも、それは触れるだけの優しいキスではなかった。
空良の舌が、私の舌にぶつかり、絡まり合う。
なぜ、空良がいきなりこんなことをするのかわからなかった。
そして、いくらキスをしたことのない私にでもわかることがあった。
空良は、初めてではない。
前にも、誰かとこんな風にキスしたことがある。
そのことが、私を打ちのめした。
「――」
空良の手が、制服の上から私の胸に触れた。
怖くはない。
でも、嫌だった。
こんな風に、心と体がバラバラで、こんなにも、分かり合えないのに。
しゃくり上げた私に気づいて、空良は驚いたように私から離れた。
「か、花音?」
答える代わりに、私は顔を背けた。
「――」
涙は止まらなかった。
何だかひどくぐちゃぐちゃな感情が、私を混乱させていた。
神社に入るいつもの角で、私と空良は別れた。
その頃には、もう泣いてはいなかったが、私は顔を上げられなかった。
私を心配して、少し離れて、後ろをついてきている空良の足音を聞きながら歩く。
歩いている間、私達はただの一度も言葉を交わさなかった。
そして、週末の真夜中。
私は初めて、空良の所に行かなかった。