晴れた空、花がほころぶように
2 ありふれた日常

「花音、おっはよぅ」
「メグ、おはよう」
 月曜の朝、通学路の途中で、同じクラスの石岡恵《いしおかめぐみ》が追いついてきた。
 私より背の高いメグは、並ぶと先輩のように見える。
「ちょっとー、昨日のドラマ見た?」
「見た見た。続きがもう気になる」
 アイドルが主演の学園ミステリー。月曜の朝が、メグが最近ハマっているドラマの話題で始まるのは、いつものことだった。
「メグぅ、かのぉーん、おはよー」
 その後ろから走ってくるのは、隣のクラスの中島優希《なかじまゆうき》だ。
 小学校から一緒の私達は、クラスが違っても仲良く登下校している。
「おはよ~」
「おはよー」
「昨日のドラマ、あそこで終わるってあり? ちょー気になるんだけど」
 優希もやはりドラマの話題を振ってくる。
 いつものように、私達は三人でおしゃべりをしながら学校へ向かった。




 古いコンクリート造りの校舎に入る。
 長方形の端にある西階段を上ると、空き教室、3組、2組、1組、集会室の順で2階がある。3階は3年生の階、1階は職員室と1年生の階だ。真ん中は、渡り廊下になっていて、特別教室のある特別棟だ。
 いつものように、3組の前の入り口で私とメグは優希と別れて、一つ隣の自分のクラスへと向かう。
 3組の教室の後ろの入り口に視線を向けて、どきりとした。

 天野空良だ。

 通り過ぎるほんの一瞬だ。
 そのまま私達は自分の教室に入る。
 学習道具を机にしまい、後ろのロッカーに通学リュックをしまえば、予鈴が鳴り、朝読書が始まる時刻だ。
 読みかけの本を開くけれど、ページは一向に進まない。
 さっき見えた、天野空良の姿が頭を離れなかった。
 記憶にある限り、私達が登校する時には、いつも彼はもう自分の席に座っていた。
 教室の窓側の隅に座ったまま外を見ている彼の姿は、とてもあの夜と同一人物とは思えなかった。
 私が出会ったのは、本当に天野空良だったんだろうか。
 そんな疑問がわき上がる。
 でも、確かにあの夜、私は「天野君」と呼びかけた。
 彼は否定しなかった。
 学校という、ある意味閉鎖された特殊な空間は、外と内で、人を変えてみせるものなのだろうか。
「――」
 結局、担任が来て、朝のHRが始まるまで、私の物思いは尽きなかった。




 一、二時間目、中休み、三、四時間目、給食と、あっという間に終わって、昼休みが始まる。
 メグと優希に手を振ると、いつものように、二音へ向かう。
 一音は、普通棟の1階の奥にある。
 二音は渡り廊下を過ぎた特別棟の3階奥にある。
 不便な上、遠いから、あまり使われることはない。
 ドアを閉じれば、そこにはもう私だけ。
 身体はいつものようにピアノへ向かう。
 グランドピアノの大屋根を起こして突き上げ棒の短い方で支えをかける。
 それから、譜面台を少し前に引いて起こす。
 譜面を広げて立てかける。
 それから、鍵盤の蓋を開け、フェルト生地の覆いを取る。
 規則正しく並んだ黒鍵と白鍵の並びを見ると、いつも溜息が出そうになる。
 ピアノは、世界で一番美しい楽器だと思う。
 音だけでなく、その姿形も。
 勿論、こうなる前に先人達が試行錯誤を繰り返したのだろうが、この完成型である美しいグランドピアノは、オルガンやエレクトーンにはない潔さが感じられた。
 派手な装飾もなく、美しい音色を響かせるためだけに造り上げられた潔さを、私は好んだ。
 椅子に浅く腰掛けると、もう指が鍵盤を滑り始める。
 指に、ペダルを踏む足に、伝わる響き。
 私の中から、日常が、遠ざかっていく。
 ピアノを弾く時、私はいつも解き放たれるような感覚を味わう。
 末端から身体に伝わる響きが、自分の中の頑なな何かをほどいていくように。
 この感覚を、ずっと味わっていたかった。
 何度もそうして弾きながら。
 気がつけば、昼休みも残り少ない。
 慌てて片付け始める。
 そうして来た時と同じ通りに片付いた二音には、私以外誰の気配もない。

 静かな音楽室。

 私は、準備室に誰かがいるなど、今まで一度も感じたことはなかった。
 だから、今でも信じられない。
 あの天野空良が、すぐ横の準備室にいて、私のピアノを聞いていたなんて。
「――」
 そんな物思いに囚われながら、音楽室を後にした。




 掃除、五、六時間目が終わり、部活動、帰宅とありきたりの一日が終わり、朝になれば、また昨日と同じ一日が始まる。
 連続した代わり映えのない毎日。
 日に日に薄れていく記憶。
 気が付けば、もう金曜日。
 私と天野空良には、何の接点もなかった。
 クラスも違う。
 今までだって、私達は同じ学年でも一切の関わりを持たなかった。
 あの夜、私が家を抜け出さなければ、決して出逢うことはなかった。
 私の日常に、天野空良は存在しないし、彼の日常にも私は存在しない。
 それが当然なのだ。
 そんな風に、時間は過ぎていくのだ。
 そうして、このまま、忘れてしまう存在なのだ。

 でも、私は忘れることなんてできなかった。

 あの声を。
 少し低く、やわらかく優しく響くあの声を、もう一度聞きたかった。
 だからこそ。
 普段は週に2度ほどしか行かない二音に、毎日通った。
 私以外の気配を感じたくて。
 準備室のドアを、開けたかった。
 でも、できなかった。
 開けてもし、いなかったら?
 そして、もし、いたら?

 私はどうするつもりなんだろう。

 その答えを持っていなかったから、私は準備室のドアを開けて確かめることができなかったのだ。
 あの夜の彼が、明るい太陽の下ではどこにもいないような気がして。
 そう思うことが、なぜかひどく寂しかった。
 そのせいなのか、週末の最後の演奏は何度弾いても、やけに寂しく響いた。




 もう出歩かない方がいいと、天野空良は言った。
 別れるまで、私を気遣ってくれた。
 でも、私は彼の言葉を守らなかった。
 予感があったのだ。

 私はもう一度、あの夜の天野空良に会える。





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