晴れた空、花がほころぶように
18 二人の傷と幸せ
暫く抱き合った後、私達は離れて互いの顔を見た。
「――」
「――」
そのまま、やっぱり暫く黙っていた。
雨の予報は外れて、穏やかで明るい午後だった。
誰も来ない。
「――ピアノ、弾きたいな」
「え?」
「空良に、きいてほしい」
唐突に言った私に、空良は少し驚いた顔をしていた。
すごく、ピアノが弾きたかった。
空良にも、聞いてほしかった。
でも、ここにはピアノはなかったし、私達の心を、それだけで軽くできることでもなかった。
「俺も、花音のピアノ、聞きたいな。ずっと聞いてたから、昼休み、すごく物足りなかった」
「ごめんね」
「いいんだ。明日から、また弾いてくれるんだろ」
「うん」
空良が笑ってくれる。
だから、私も笑い返した。
都合のいい物語なら、ここで幸せな気分のまま終われる。
でも、私と空良には、そんな簡単にハッピーエンドなんて来ない。
幸せだったけど、それはどこか影がさすようなものにも感じた。
実際、私は傷ついていた。
それまで知らなかった悲しみや苦しみを知ってしまったから。
進路で悩んでいたことなんて、塵のようにさえ感じる、深い悲しみや苦しみを、知ってしまったことに傷ついている。
でも、それは空良の方がもっと強く感じているだろう。
美しい音楽だけで、空良は救えないのだ。
それでも、一緒にいたかった。
空良を失うかもしれないと悩んだ時間の方が、ずっと辛かったから。
ぐちゃぐちゃの感情が入り交じる、美しいだけではない世界で、私は空良と歩いていきたい。
ほんの少しの美しいものに目を向けながら。
かけがえのない幸せを愛おしみながら。
私のそんな考えに気づいたように、空良は小さく呟いた。
「ごめんな。こんな話して」
「空良――」
もう一度、私は空良の手を握った。
「空良が悪いんじゃない。だから、もう謝ったりしないで。空良が謝るなら、私も謝り続ける。一人にしてごめんね。不安にさせてごめんね。ずっと、辛かったよね。気づいてあげられなくてごめんね」
私の言葉に、空良は驚いたようにじっと私を見つめていた。
それから、ぎゅっと目を瞑った。
そうでもしないと、泣いてしまいそうなように。
そうやって、一人で耐えていた空良を、いっそう好きだと思った。
目を開けて、私を見る空良は、弱々しそうに笑った。
「別に、辛いとか死にたいとか、もうそんなこと思ったりしないんだ。ただ――何か、馬鹿みたいだけど、自分が汚いなって思うんだ。だから、花音に触ったり、触られたりすると、嬉しいけど、怖くなる。花音も俺に触ったら、汚してしまうんじゃないかって」
「そんな、汚いなんて、思わないよ」
「うん。俺が、そう感じるだけ――でも、どうせするならキスも、セックスも、好きな女としたかった」
空良は一度目を逸らし、私の手を見た。
それから。
「俺、一番最初は、全部あんたとしたかった」
独り言みたいに、小さく、言った。
その言葉に、空良の傷が見える。
こんなに傷ついて、痛みに必死で耐えてる空良に、私の心も痛む。
「ねえ、空良、知ってる? 人間の細胞って入れ替わるの」
空良が、驚いたように顔を上げた。
「髪だって爪だってそう。皮膚なんか、28日過ぎたら完全に入れ替わってる。だから、三年前の空良は、もうどこにもいないの。ここにいる空良は、私だけが知ってる新しい空良。だから、汚くなんてない」
呆気にとられてる彼を余所に、私はなおも続ける。
「空良は私の一番大切な人だから、自分を大切にして。諦めないで。一緒に、歩いていこう?」
「――」
空良は、私を見つめて、それから――笑った。
泣きそうでもなく、弱々しくもなく。
「ホント、あんたって、変なやつ」
でも、今の私にはわかる。
彼が私をそう言う時は、照れて、嬉しい時なんだって。
変でもいい。
彼がそう言うなら、変なままでいい。
変な私が、空良を喜ばせてあげられるなら。
「――」
私も笑った。
幸せだった。
あなたが笑うだけで、私はこんなに簡単に幸せになれる。
今は、傷ついて、心痛むときがあるだろうけれど。
二人でいられるなら、いつか傷も全て癒える。
そうして、こんなふうに笑い合える。
輝かしい未来があることを、私は信じて疑わなかった。