晴れた空、花がほころぶように
19 私の望みと喜び
「あれ、花音、今日音楽室行くの?」
昼休み、机の中から楽譜をとりだしたのを教室に入ってきたばかりの優希に見られ、声をかけられる。
「うん。また、練習することにした」
「そっか。よかった」
優希は笑ってメグを見る。
「じゃあ、いつも通り、お見送りいたしましょう」
メグがおどけたように言って立ち上がる。
東堂くんに無理矢理告白されてから、メグと優希が特別棟3階の階段まで送り迎えしてくれるのは当たり前になっていた。
「で、花音の本当の悩みは解決したのね」
優希が何でもないことのように私に聞いた。
「うん。わかってた?」
「そりゃあ、テレビ番組のことじゃないのはね。でも、今は花音いつも通りだから聞いてもいいかなあって」
「ここで聞くかなぁ。タイミングってもんがあるでしょうよ」
メグがあきれたように話すものの、優希と同じで聞きたがっているのは明らかだった。
二人とも、わかってて聞かないでいてくれたんだ。
「あのね、進路のことで悩んでたんだ。私が音大に行きたいって言ったら、変?」
私の言葉に、メグと優希は顔を見合わせてから、
「全然変じゃない」
「ていうか、むしろ行きたいと思わないほうが変」
即答してくれた。
「こんなにピアノ大好きっこの花音が音大に行かないで他の誰が行くのって感じ」
「何、反対されてんの? だから悩んでたの?」
「違うの。ほら、実際、音大に行くってお金かかるじゃない? だから、親には言えなくて、それで悩んでたの」
メグがため息をつく。
「そっか、お金か……」
「そりゃ、花音なら言いにくいだろうな。でもさ、まだ言ってないんでしょ? ダメもとで言ってみなよ。成績も上がってるんだし、それを武器に強気で押してみな。もったいないよ」
「そうだね。一生のことだし、後悔しないよう言ってみたらいいと思う」
メグと優希の励ましに、私は嬉しくなった。
「うん。私もね、言ってみようと思う。ありがとう、話聞いてくれて」
「なんの。高校までは一緒にしようって誓った仲じゃないの」
「そうそう。がんばりなよ、花音!」
「うん!」
階段を上がって誰もいないのを確かめるとメグと優希はまた降りていく。
私は少し早足で音楽室へと向かう。
しばらくぶりの音楽室は何も変わっていなかったけど、新鮮な気がした。
準備室にそっと近づくと、ドアノブに静かに触れる。
空良がいてくれるのを確認したかった。
ゆっくり力を入れると、途中で止まるはずのドアノブが最後まで回った。
鍵が、かかっていない。
空良がいない?
慌ててドアを押すと、勢いでドアが壁にぶつかった。
その勢いにびっくりしたが、開いたドアの反対側に空良が立っていたのにはもっとびっくりしてしまった。
「空良――」
空良も驚いた顔で私を見ていた。
「びっくりした。ドアの前に立ってなくてよかった」
「ご、ごめんね。空良がいるかどうか確かめたかったの。鍵がかかってたら、いるってことだから。なのに、ドアノブ回したら、鍵かかってなくて、それで――」
私の言葉に、空良は納得してくれた。
「そっか。それでか、時々ドアノブ触ってたの」
う、ばれてる。
「気づいてた?」
「うん。鍵かかってんの知ってるはずなのに、何で回すのかなって思ってた」
私の顔を見て、空良は笑ってた。
ばつが悪かったけど、空良の笑顔を見られたからいいのかな。
「でも、どうして今日は鍵かけてなかったの? 忘れてた?」
私の問いに、空良は首を横に振った。
「花音のピアノ弾いてるとこ見たかったから。今日から、花音が弾いてるとこ見ながら、聞きたい」
「――」
言葉が出なかった――嬉しくて。
私と同じように、空良が私に近づこうとしてくれている。
「――えっと、その沈黙は、いいよってことなんだろ?」
急いで首を縦に振る。
黙っている私の顔を見て、空良も笑ってくれた。
それだけで、泣きたいような気持ちになった。
「――空良は、何が聞きたい?」
空良の答えは決まっていた。
「『主よ、人の望みの喜びよ』」
準備室のドアを閉めると、空良はドアに寄りかかるように座り込んだ。
私はいつも通りゆっくりとピアノを弾く準備をする。
空良が見ていてくれる。
それだけで発表会の時よりも緊張した。
そして、高揚した。
椅子に座れば、目の前には白と黒の鍵盤が見える。
余計なものは何もない。
「――」
一度大きく呼吸して。
私は、弾き始めた。
主よ、人の望みの喜びよ。
柔らかな出だしから繰り返される旋律。
この曲を弾くたびに、いつも、問いかけたい気持ちに駆られた。
神様、そこにいるのですか。
聞いてくれていますか。
今日ほど、そう願ったことはないと思う。
弾きながら、心は遠く別の次元にいるような気がした。
温かく、光に満ちていて、どこまでも平穏に安らげるような場所にいるような。
そして気づいた。
これが主の愛なのだと。
この愛のために、人は祈り、歌い、奏でるのだ。
そのためにある音楽。
その場に、奏でられる瞬間にしか、ない音。
どんなに願っても残せないもの。
だから祈る。
大気に響き、消えていくだけの音にのせて。
そこにいてください。
感じさせてください。
あなたが、確かにそこにいることを。
愛されているのだと。
だからこそ、生まれてきたのだと。
旋律の中で、私達は神を探す。
そして、確かに神を見る。
そして、確かに神を聞く。
そして、確かに神を知る。
これ以上の喜びが、どこにあるだろう。
終わらなければいい。
永遠に、閉じ込めて、全てがこの瞬間だけであれば。
それでも。
私達は、永遠ではないから。
どんなに願っても、永遠にはなれないから。
この瞬間が続くことを願いながら終わる。
「――」
コーダが終わる。
最後の音が響きを終える。
五分にも満たない永遠。
その余韻に、私は目を閉じた。
それから、目を開けて横を向くと。
「――」
空良が私を見ていた。
泣き出したいように目を潤ませて。
そして、笑った。
その微笑みで。
私が感じたものを、空良もまた感じていたことを悟った。
そこに言葉はいらない。
私と同じ心で、同じものを感じてくれる人。
そんな人が、今、この瞬間にいる。
完璧だった。
それが私の望みであり、喜びだった。