晴れた空、花がほころぶように
22 さよならのキス
空良と私は走った。
走って走って、でも、私達が行けるところは何処にもなかった。
あの小さな境内以外には。
手水舎の脇の水道で、空良は血の付いた手と、切れた唇を洗った。
それから、小屋に入った。
私は小屋に置いておいたリュックから絆創膏を取り出した。
座り込んだまま動かない空良の切れた唇の端に貼ってあげる。
「――」
父親を殴った空良の手は、指のところが赤く腫れていた。
「空良……」
名前を呼ぶことしか、できなかった。
「俺、親父を殴っちまった」
独り言のように漏れた呟き。
「――殺したかも、しれない」
胸が、痛い。
「空良――空良」
空良はしがみつくように私を抱きしめた。
身体を震わせ、彼は泣いていた。
声を殺して。
私も泣いた。
私達はまだ本当に子供で、これからどうすればいいのかもわからず、ただ震えて泣くだけの、無力な存在にしか過ぎなかった。
「俺、戻るよ」
空良が、体を離して言った。
「え……?」
「戻って、救急車呼ばないと」
「――」
泣いた後だからか、空良はどこか冷静だった。
私は、そんなに冷静にはなれなかった。
これからどうなってしまうのかが怖かった。
私の怯えを空良は感じ取っていた。
「きっと、警察が来る」
「空良――」
「俺、捕まる」
「空良!!」
私は叫ぶように遮った。
これ以上、空良の口からそんな言葉を聞きたくなかった。
「正直に言おう。私を助けてくれたんだって。そうしたら、きっと――」
「だめだ」
「空良――」
「そんなこと話したら、俺達が夜中に会ってたこともばれる。花音も誤解されて責められる」
「それでもいいよ。ちゃんと話そう。わかってもらおう」
「花音。誰もわかってくれない。誰も助けてくれないんだ」
「――」
私の言葉より、空良の言葉のほうが本当のように聞こえた。
誰も助けてくれない。
空良には、助けてくれる人がいなかった。
本当なら、守ってもらえるはずの人に守ってもらえないまま、ここまで来たのだ。
「――」
私は、それ以上何も言えなかった。
ただ、泣くしかできなかった。
空良の手が私の頬に触れる。
「ごめんな。怖かったろ」
「――」
「忘れるんだ。あんなことはもう起こらない。あれは、悪い夢だったんだ。もう二度と、起こらない」
優しくそういう空良に、涙を止めることができない。
空良には、きっとあの時、私が自分自身に見えたのだ。
誰にも助けてもらえなかった、可哀そうな自分自身に。
「俺がどんなでも、好きでいてくれるか」
私は頷く。
ずっとあなたを好きでいる。
「どんなに、離れても」
例えどんなに離れても、あなたをずっと好きでいる。
「――」
そっと静かに、空良の顔が近づいてくる。私は瞳を閉じた。
優しいキスは、涙の味がした。
そして、それが最後のキスなのだと予感させた。
空良が離れる。
「花音、先に去け」
空良が呟いた。
当然のように私はためらった。
おいてはいけない。
もう、会えなくなるかもしれないのに。
「花音は何も関係ない。家に帰れ」
そうして、空良も帰るのだ。
あの家へ。
「――」
言われるまま、私はリュックを背負い、サイドバッグを持って小屋を出た。
外はもう日が暮れかけていた。
一日が終わろうとしている。
私達の世界が終わる。
振り返ると、空良がいるのに。
終わってしまう。
空良が小屋の戸を閉めた。
一度だけ、私を見て。
そうして、私に背を向けて、ゆっくりと石段を降りて行った。
私は、境内の後ろの林へとまわる。
走って走って、すぐに家に着いた。
すぐに二階へ駆け込む。
扉を閉めれば、誰も、何も気づかない。
「――」
部屋にこもって、声を殺して私は泣いた。
空良は学校には来なかった。
もう、来ないのだ。
開いたままの空良の席。
でも、誰も不思議に思わない。
それがまるでありふれた日常のように。
私はいつものように昼休みにピアノを弾く。
ただ、そこに空良がいない。
私の世界に、空良がいない。
永遠に、いなくなった。
それだけで、こんなにも哀しい。
『主よ、人の望みの喜びよ』
あの時弾いた、奇跡のようなピアノは、もう聞こえない。
何度弾いても、私の心に響かない。
弾きながら、私はただ空良を想う。
空良。
空良。どこにいるの。
誰といるの。
そこは、優しい世界なの。
空良の望みは、ただ、穏やかに、普通に、暮らしていくことだけだった。
温かな家庭。
優しい家族。
他愛ない友達とのおしゃべり。
ただ当たり前に過ぎていくだけの日常。
望んでいけない訳が、どこにあるのだろう。
なぜ、空良にだけ、それが許されなかったんだろう。
空良に会いたい。
ピアノを弾きながら、涙が零れる。
それでも、弾き続ける。
それしか、できないから。
神様なんて、何処にいるんだろう。
神様って、何なんだろう。
空良がどんな悪いことをして、私達の何が悪くて、一緒にいることができないのか、どんなに考えてもわからない。
空良は、私を救けてくれただけなのに。
私達は、ずっと一緒にいるはずだったのに。
答えの出ない問いを、私も空良のように考え続ける。
そして、気づく。
空良がいなくなっても、私は変わらずに生きていけるのだ。
「――」
そう思うと、涙が止まらなかった。