晴れた空、花がほころぶように
7 彼と過ごす時間
突然現れた天野空良に、私は驚きすぎて声もかけられなかった。
「――」
学生服のままの彼は、夜に見る彼より、少し幼く見えた。
私服の時の方が大人びて見えるものなんだと、今更ながら私は思った。
真正面から制服を見るのも初めてな事に、心の中で感動した。
クラスの違う私は、教室の扉から黙って座っている彼を横目で見るしかなかったから。
でも、どうして、夜じゃないのにここにいるんだろう。
私の疑問を、彼は表情だけで察したようだ。
「家に帰ったら、親父がいたから」
彼が私に近づいてくる。
「あんたは、なんでここにいるの? 学校帰りには遅い」
昼の彼も、夜のように私に話しかけてくれる。
それだけで、さっきまでの寂しい気持ちが消えていく。
「あ、ピアノの帰りなの。帰り道だし、気になって」
「へえ、ピアノ習ってるんだ。だから上手いんだな。いつから?」
「えっと、六歳から」
「六歳って、まだ小学生にもなってないじゃん。そんな小さいうちから習うもんなの?」
「それは、個人差かな。もっと早い人もいるよ。私は、その時、ピアノに出会っちゃったから」
「ふぅん。じゃあもう八年もやってんだ」
「うん」
「飽きないの?」
「――飽きないな。ピアノ、好きだから」
「そっか。そんなに好きだから、ピアノがなくても弾けるんだ。なぁ、さっきのもっかいやってみせて」
そう言って、彼は自然に私の隣に座った。
彼にとっては、興味深いものだったのだろう。
リクエスト通りに、私はスコアファイルの上で指を動かした。
ファイルに当たる乾いた音がリズムだけを刻む。
一番だけを弾き終わると、彼は感心したように拍手してくれた。
「すごいな。ちゃんと弾いてる」
「何弾いたかわかる?」
「あれだろ、『主よ、人の望みの喜びよ』」
私はびっくりした。
「天野くん、耳がいいんだね」
「そうかな。音楽、いっつも赤点だけどな」
そう言って、彼は笑った。
「天野くんは、ここで勉強してたの?」
「あ? ああ。数学解いてた。中間テストの範囲」
「すごいね。私、数学ちょっと苦手だから」
赤点とまでは行かないが、数学はなかなか八十点を超えない。
文系のせいか、理数系はふるわないのだ。
国社英で点数を稼いでいるのは否定できない。
「教えよっか?」
さらっと彼が言った。
「え? いいの?」
「数学なら教えられる。得意な方だから」
私は嬉しくてどきどきした。
昼の彼に会えただけじゃなく、たくさん話して、しかも勉強まで教えてくれると言ってくれたのだ。
「私も、何か教えられたらいいんだけど、天野くん、苦手なのある?」
理科と言われたらお終いだけど、国社英なら、まだ何とかなるはず。
だが、予想外に彼は言った。
「じゃあ、音楽教えて」
「え? 中間には、音楽、ないよ」
「期末はあるじゃん。それまでに勉強しとく」
めちゃめちゃ苦手だから、小学生レベルからな。
そう言った彼の顔が、くしゃっとして可愛かった。
「わかった」
「じゃあ、明日からな。部活ないから、放課後、ここでいいか?」
「うん。じゃあ、私今日はもう帰るね」
あまり遅くなると母親に文句を言われてしまう。
明日からは図書館で勉強すると言わなければ。
「ああ。また明日」
お互いに手を振り合って、私は石段を下りた。
明日も、彼に会えるんだ。
私は嬉しさを隠せなかった。
帰りの足取りが浮かれていたのは否定しないし、する気もなかった。
朝から昼休みも待ち遠しかったけど、放課後はもっと待ち遠しかった。
帰りはメグと優希と中間についていろいろ話したり、他愛ないおしゃべりをした。
私の家が一番遠いので、メグと優希とは途中で別れた。
それから、私は山の上の神社に向かう。
石段を上ると、彼は昨日私が座っていた神社の階の所に座っていた。
「――」
私が手を振ると、彼も手を上げて返してくれる。
「やるか」
「うん。よろしくお願いします」
私も座って、数学の教科書と、ワークを出す。
「特に苦手なとこあるのか?」
「――証明かな?」
「じゃあ、使う公式と基本の型からだな」
教科書とノートを開いてから、彼は説明を始めた。
私の大好きな彼の声が、証明の基本の型を書きながら説明していく。
私は、ノートを覗き込みながら、彼の声を聞く。
聞きながら、自分もノートに彼と同じ証明の型を書いていく。
「天野くん、めちゃめちゃ数学得意なんだね」
「たくさん解いたからな。ここだと時間だけはたくさんあるし、問題解いてると気も紛れるし」
数学の先生が話すことはほとんどわからなかったのに、彼の声で聞くとすんなりと理解できるのはなぜなんだろう。
彼に教えてもらいながら、私は似たような問題を型に当てはめながら順序よく解いていった。
彼は根気強く私に教えてくれ、最後には、試験のヤマをかけているところと、今日家に帰ってから解くといい、証明以外の練習問題まで教えてくれた。
時間にしたら、一時間はあっという間に過ぎてしまった。
「じゃ、今日はここまでな。一日であんまりやりすぎてもわけわかんなくなるから」
「うん。すごくわかりやすかった。ありがとう」
「ホントに? 数学の佐々木が言ってること、そのまま喋ってるだけだけど」
「ホントに? 私、授業中、すごい集中して聞いてるつもりだったんだけど」
微妙な表情でお互いを見合って。
それから。
「――」
私達は同時に吹き出した。
「天野くん男だから、理数系なんだよ。私文系だから、数学とは相性悪いんだ」
「そうかもな。俺もあんま国語とか好きじゃないし。音楽もダメだしな」
芸術に関しては才能ないな、と彼は肩を竦めた。
そんな仕草を見られることも嬉しかった。
男子を見ると、何だか大きくて、怖かったのに、彼といると全然怖くなかった。
会話をしても、どこまでが冗談で、どこまでが本当なのか判断できなくて、なんだか上滑りしていくようでよくわからなかった。
でも、彼には、私の言っていることが通じているみたいだし、私も、彼の言うことがきちんと理解できる。
からかって面白がるような話はしないし、聞いたことにはきちんと答えてくれる。
疑問に思えば聞いてくれるし、私のピアノを認めてくれる。
お世辞で上手いといってくれるのではなく、本当に感心してくれているのが伝わる。
そんな男の子は、彼が初めてだった。
弟とだって、話が通じないような寂しさを覚えたものだったのに。
「じゃ、次は高森な」
そう言って、彼は数学のテキストを脇に置いて、音楽の教科書を手に取った。
「うん」
私も、音楽の教科書を取り出す。
ここからが私の本領発揮だ。
「天野くん、階名読める?」
「『階名読む』って、その言葉からもうわかんねぇ」
「――」
これは手強い。
音楽の教科書を開く。
大抵音楽の教科書には、最後に階名と音楽記号がまとめて載っているのだ。
「ここがわかれば、音楽はそんなに苦労しないよ。階名を読むって、音符を見てドレミを当てはめること。場所が決まってるからすぐ出来るようになるよ」
「ホントに?」
疑わしそうに彼が音楽の教科書を覗き込む。
「五線譜は、下から第一線、第二線、第三線、って数えていくの。線の間は、『かん』っていって、第一間、第二間、第三間って数えるの。ドレミファソラシドの位置が必ず決まってるから。ここがドでしょ。レが第一線のすぐ下。ミが第一線、ファが第一間、ソが第二線、ラが第二間、シが第三線、ドが第三間、っていうように、いつも線、間、線、間って順番に高くなっていくんだよ」
「団子みたいに、線に刺さってんのと、間に挟まってるのって覚えればいいんだな」
「そうそう」
線、間、線、間、と呟きながら、彼はドレミの位置を覚えていった。
もともと勉強は出来る方だから、彼はすぐに階名を読めるようになった。
私は期末に出るだろうページを開いて、彼に階名を読ませたが、さらっと読んでしまった。♭と♯がつく階名の意味もすぐに理解した。
「天野くん、別に音楽出来ないんじゃなくて、やらなかっただけなんじゃ――」
「おかしいな。小学校で教わった時は、全然わかんなかったのに、高森に教わるとすっごいわかる」
そう言われて、嬉しくなった。
私にとっての数学も、そうだったから。
彼の言葉が、私に通じるように、私の言葉も、彼にきちんと通じているんだ。
メグや優希以外に、そう言うことが通じるのが、不思議であり、感動だった。
「じゃあ、次は記号ね」
音楽記号は暗記するしかないから、私が書いたものを彼が当てていくというのを試してみた。
「なんでこれ、ト音記号って言うんだ?」
彼は五線譜に書いたくるりと回転したト音記号を見て、そう聞いた。
「昔はドレミじゃなくて、イロハで階名をあててたの。ドはハ、レはニ、ミはホ、ファはヘ、ソはト、で、ト音記号の書き始めは、五線譜の第2線のソ――つまりトで始まっているからト音記号っていうの」
「じゃあ、ヘ音記号は書き始めがヘ?」
「そう。ファから書き始めるの。ただ、ヘ音記号だと、ドレミの位置が違うから、ファは第3線になるの」
「へぇ、初めて知った」
彼はト音記号とヘ音記号を指でなぞりながら呟いた。
「でも、なんでドがハなんだ? イロハが先だろ?」
「もともと基本の音はラだから。ヴァイオリンなんかは、ラから始まるんだよ」
「そうなのか」
「へ音で譜面が読めれば、両手でピアノ弾けるよ」
「俺でも?」
「うん。へ音は左手用だから。最初は練習が必要だけどね」
「そっか。わかれば、音楽って楽しいんだな」
それを聞いて、ますます嬉しくなる。
私が好きなものを彼も好きになってくれるのは、すごく嬉しい。
「あのね、音楽って、言葉が通じなくても伝わるでしょ。楽典をちょっと覚えて仕組みがわかれば、誰でも楽しめるんだよ。昔は、神様に捧げるために音楽があったけど、今はたくさんの音楽があって、誰でも自由に音楽を楽しめるでしょ? それって素敵な事じゃない?」
「そうだな。高森は名前がもう音楽だもんな」
「え?」
「カノン、だろ」
私は笑った。
「天野くんの名前も音楽だよ」
「へ? ああ、そっか、『ソラ』だもんな」
それだけじゃない。
ソは、本来音の終わり。
そして、ラは五線譜の中心で、音の始まりで、基本の音。
ソラは、終わりと始まり。そして鍵盤の中心にあり、まさに音楽そのものなのだ。
「言い過ぎ」
照れたように笑う彼が、嬉しかった。
彼の声は、私には音楽なのだ。
いつまでも聞いていたい音。
それは、決して言い過ぎではない。