思想
存在
「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」
それはどういう意味だったのだろう。「語りえぬもの」とは個々人の理性による把握を超えたものであろうか。
私は歩く。
語りえぬものとは何だ。
この世界で生きている人間は、「ある」ということがどういうことか理解しているのだろうか。同時に「ない」ということを認識しているのだろうか。
私は歩く。
どこからともなく風が吹いてくる。私はどこかわからない「そこ」を歩く。
「君は自分がそこに「在る」と言えるのかい?」
不意にどこからか発せられた声に私は辺りを見回す。しかし「そこ」は暗く、黒く何も見えない。
「「ない」ということは、ありえない。」
私はそう答える。辺りは重い色に塗りつぶされ「そこ」に「それ」がいるのかどうか、確信を持たぬまま若干の恐怖を交え落ち着きを払って。
「ない」ということはどうやって証明するのだろう。
……。
返答がない。
「ない」はありえない。存在しないものを証明することは不可能だ。「ない」は「ない」のだから認識できるはずがない。「ない」ということ、つまり無は我々は実感しえない。
私は歩く。
「神は存在しない。」嘲笑を含んだその声はなにも「ない」その空間へと放たれ私の耳へと送られてくる。
神、か。
その問い的確かどうか、それは今問題ではない。
私は立ち止まる。
「神」という言葉を聞けば人々は何を想起するのだろうか。白の衣を纏い、長い髭を垂らした老男であろうか。それともギリシア神話に登場する神々であろうか。
それをどう証明する。
私は歩き出す。
私は想起という言葉を使った、それはそれに関する概念を思い浮かべた。
「神はいない。」
その声はどこからくるのだろうか。先ほどの嘲笑は消え、それは悲しみを帯びているように聞こえる。
しかし我々はそういった何らかの概念を想起できる。その時点でそれが「ない」ということから「ある」へと変容しているのではないか。
それが、たとえ真実でなくとも。
私は歩く。
「ない」とは「語りえない」ことだ。人間は「ない」ことを知覚できはしない。
その言葉を使ったとしてもそれは単に「科学的に」、「今は」という限定つきだ。
今、「そこ」に「ある」ことを証明することができても
今、「そこ」に「ない」ことはどう証明すればいい。
沈黙。
「時間だ。」
落胆したようなその声は最初からそこに「あった」のか。
わからないまま、二度とその声を聞くことはなかった。
私は、歩くことをやめた。