およしなさいよ、うさぎさん。
◇
「はぅ……ぅあっ、あん! と……く、さまぁ……あぁっ、あん、あっ、んん……其処は、あ……やめの……篤さまぁ!」
井戸水で洗った菖の陰部だが昨夜の交わりで真っ赤に腫れ上がってしまい、それに罪悪感を抱いた篤が腰巻きを捲り熱心に舌を這わせている。
朝の重永第三邸宅には、女の艶やかな声が反芻していた。
多江は調理場から、お隣に聞こえてしまわないのでしょうか、と女中たちと心配をなさりながら釜の火を加減し野菜汁に味噌をとかす。
昨夜から今朝にかけて、まさに一晩中聞かされた菖の声に女中たちも目の下に黒いものをつくり、主人とその女の為の朝餉(あさげ)を用意する。
「多江様、膳をお二つご用意いたします」
「そうしてください。少し離れた場所に置きましょう」
女中は苦笑いを返すと、客人用の膳を棚から出して濡れた布で隅まで丁寧に拭いた。
「あっ、あっ、おかしくなります……あああああ…………」
畳につま先をつけてひっくり返った蛙のような姿で陰部を弄ばれていた菖の体から、力だけがすとんと抜けてしまった。篤は「気をやってしまいましたか?」と惚けたように顔をあげて、菖の体液で濡れた顔をぐいっと着物の袖で拭いた。
「朝餉の刻となりました。これを食べたら私はお仕事に向かわなければなりません。菖は、湯屋へおゆきなさい」
「はい……篤さま」
女中が板の間をぎしりぎしりと歩いていらっしゃる音がして、菖は慌てて着物の裾を合わせた。乱された御髪はもうどうにもできずに、小さなうさぎのように丸くなり、畳に正座をした。
膳を運んできた多江は、篤がはだけたままの胸元を隠そうともせず胡座をかいている姿を見て、細い眉をハの字にしてしまう。いつもの朝餉ならば篤は顔を洗い洋服を着て、凛とした顔で正座をし静かに箸を持つのだが、このような主人の姿は見慣れない。
しかも、自分が不快感を抱いていることに気がつきもせず「菖と膳が遠い」と不満を言って小娘に近づくと「私が食べさせてさしあげましょうか?」などと甘ったるい声を出したりするものだから、もうたまらない。顔を赤くした女中を連れて「失礼いたします!」と板の上をずんずんと歩いてしまったのだ。
これまでも、篤はたまに遊郭に行き女を抱いていたのを多江はよく知っている。結婚前の健全な男ならばそうして遊ぶことを悪いこととは思わない。むしろ一般的であって、遊郭に入り浸るわけでもなく、ごくたまにふらりと遊びにゆく篤を「篤様も健全な男子にあられる」と安心していたくらいだ。
それが、いかなる変わりようでしょうか。まるで狸が化けているようだ。
膳に並んだ白米と味噌汁、沢庵、ごぼうの煮付けと魚の切り身。それらを箸で小さく摘まんで菖の口に入れると、その唇を唇で塞いで咀嚼をお手伝いしたりして遊んでいた篤は、仕事など辞めてしまおうか、などと良からぬ事を考えている自分が薄ら恐くなり、急に慌てた様子で朝餉を胃にかき込むと「湯屋におゆきになられた後はすぐにこの家に戻り、私の帰りを待つのですよ。眠っていてもかまいませんよ」と菖に言いつけをして部屋を出た。
「お急ぎください」と多江に小言を言われて、顔を洗い昨日と同じ服を着て皮の鞄を掴むと、馬車に飛び乗った。
だがやはり菖のいない女学校はつまらない……と小さな四角い窓に吐き出した。
女学校の立派な門構えを馬車で通り、生徒たちが袴姿で意気揚々と歩いている列の脇を進み、煉瓦造りの建物の前で衿を正してから馬車を降りた。新着したばかりの皮の靴は、昨日草むらに入ったせいで汚れていたはずだが、綺麗に磨かれていた。
多江に礼を言わなければ……と思いながら、篤は校舎の硝子戸を開いた。
「おはようございます。先生」
「おはようございます。茉寧(まりね)さん」
茉寧は、紫音といえば言わずと知れた両親揃って華族、生粋の上陸階級のお家柄。誰もが羨むほどのお嬢さまだ。篤の両親と茉寧の両親は懇意にしており、言わば幼なじみというものだ。
「本日は朝よりお天道様が眩しく清々しい日でございますね」
「さようですね。ご挨拶が上手になりました」
茉寧は、教師面してさらりとやり過ごしてしまう篤に「もう」と頬を膨らまし隣を歩く。
「篤さま、童子扱いはなさらないでください」
「なさりますよ。童子でございますから、それと私を先生と呼ぶこと。それでは失礼いたします」
「わたくしは、童子ではございません!」と顔を赤くさせた茉寧を置き去りにして篤は教師室に入った。
木戸を開き、一礼「おはようございます」と頭を下げて、くるりと振り向き両手で礼儀正しく戸を閉める。その一連の動きを見ていた同僚の塔野(とうの)は「お育ちがいいことで」と呟き、くくっと肩を揺らして笑った。
「篤」と片手をあげて挨拶代わりにしてしまう同僚に篤は頭を下げて「おはようございます」と返事をした。
塔野は篤の肩に腕を回して「なあ、今夜辺りどうだい?」と声を潜めた。篤は塔野を振り払おうとはせずに、にこりと笑い「私はもう彼処へは行きません」と誘いを断った。
どうだい? と言うのは、酒を飲み遊郭で一夜を遊び明かそう、という誘いであり、それを篤は断った。
書庫へ行き、涼しいお顔をして授業に必要な教科書を選んでいる篤の横顔を塔野はしげしげと見つめた。
「女か……? 縁談でも整ったか? 篤よ」
篤は分厚い書を重そうに持ち「整いました。とびきりの美人ですが、もったいないので塔野には見せません」とさらりと発言し、塔野は驚きのあまりに書棚に背中を打ちつけた。
「それは、おめでとう」
「ありがとうございます」
一体、どんな女だ? お育ちが良すぎて少々物足りないこの男と祝言をあげる令嬢は…………塔野は顎に手を添えて「まったく心当たりがない」と呟いた。
「はぅ……ぅあっ、あん! と……く、さまぁ……あぁっ、あん、あっ、んん……其処は、あ……やめの……篤さまぁ!」
井戸水で洗った菖の陰部だが昨夜の交わりで真っ赤に腫れ上がってしまい、それに罪悪感を抱いた篤が腰巻きを捲り熱心に舌を這わせている。
朝の重永第三邸宅には、女の艶やかな声が反芻していた。
多江は調理場から、お隣に聞こえてしまわないのでしょうか、と女中たちと心配をなさりながら釜の火を加減し野菜汁に味噌をとかす。
昨夜から今朝にかけて、まさに一晩中聞かされた菖の声に女中たちも目の下に黒いものをつくり、主人とその女の為の朝餉(あさげ)を用意する。
「多江様、膳をお二つご用意いたします」
「そうしてください。少し離れた場所に置きましょう」
女中は苦笑いを返すと、客人用の膳を棚から出して濡れた布で隅まで丁寧に拭いた。
「あっ、あっ、おかしくなります……あああああ…………」
畳につま先をつけてひっくり返った蛙のような姿で陰部を弄ばれていた菖の体から、力だけがすとんと抜けてしまった。篤は「気をやってしまいましたか?」と惚けたように顔をあげて、菖の体液で濡れた顔をぐいっと着物の袖で拭いた。
「朝餉の刻となりました。これを食べたら私はお仕事に向かわなければなりません。菖は、湯屋へおゆきなさい」
「はい……篤さま」
女中が板の間をぎしりぎしりと歩いていらっしゃる音がして、菖は慌てて着物の裾を合わせた。乱された御髪はもうどうにもできずに、小さなうさぎのように丸くなり、畳に正座をした。
膳を運んできた多江は、篤がはだけたままの胸元を隠そうともせず胡座をかいている姿を見て、細い眉をハの字にしてしまう。いつもの朝餉ならば篤は顔を洗い洋服を着て、凛とした顔で正座をし静かに箸を持つのだが、このような主人の姿は見慣れない。
しかも、自分が不快感を抱いていることに気がつきもせず「菖と膳が遠い」と不満を言って小娘に近づくと「私が食べさせてさしあげましょうか?」などと甘ったるい声を出したりするものだから、もうたまらない。顔を赤くした女中を連れて「失礼いたします!」と板の上をずんずんと歩いてしまったのだ。
これまでも、篤はたまに遊郭に行き女を抱いていたのを多江はよく知っている。結婚前の健全な男ならばそうして遊ぶことを悪いこととは思わない。むしろ一般的であって、遊郭に入り浸るわけでもなく、ごくたまにふらりと遊びにゆく篤を「篤様も健全な男子にあられる」と安心していたくらいだ。
それが、いかなる変わりようでしょうか。まるで狸が化けているようだ。
膳に並んだ白米と味噌汁、沢庵、ごぼうの煮付けと魚の切り身。それらを箸で小さく摘まんで菖の口に入れると、その唇を唇で塞いで咀嚼をお手伝いしたりして遊んでいた篤は、仕事など辞めてしまおうか、などと良からぬ事を考えている自分が薄ら恐くなり、急に慌てた様子で朝餉を胃にかき込むと「湯屋におゆきになられた後はすぐにこの家に戻り、私の帰りを待つのですよ。眠っていてもかまいませんよ」と菖に言いつけをして部屋を出た。
「お急ぎください」と多江に小言を言われて、顔を洗い昨日と同じ服を着て皮の鞄を掴むと、馬車に飛び乗った。
だがやはり菖のいない女学校はつまらない……と小さな四角い窓に吐き出した。
女学校の立派な門構えを馬車で通り、生徒たちが袴姿で意気揚々と歩いている列の脇を進み、煉瓦造りの建物の前で衿を正してから馬車を降りた。新着したばかりの皮の靴は、昨日草むらに入ったせいで汚れていたはずだが、綺麗に磨かれていた。
多江に礼を言わなければ……と思いながら、篤は校舎の硝子戸を開いた。
「おはようございます。先生」
「おはようございます。茉寧(まりね)さん」
茉寧は、紫音といえば言わずと知れた両親揃って華族、生粋の上陸階級のお家柄。誰もが羨むほどのお嬢さまだ。篤の両親と茉寧の両親は懇意にしており、言わば幼なじみというものだ。
「本日は朝よりお天道様が眩しく清々しい日でございますね」
「さようですね。ご挨拶が上手になりました」
茉寧は、教師面してさらりとやり過ごしてしまう篤に「もう」と頬を膨らまし隣を歩く。
「篤さま、童子扱いはなさらないでください」
「なさりますよ。童子でございますから、それと私を先生と呼ぶこと。それでは失礼いたします」
「わたくしは、童子ではございません!」と顔を赤くさせた茉寧を置き去りにして篤は教師室に入った。
木戸を開き、一礼「おはようございます」と頭を下げて、くるりと振り向き両手で礼儀正しく戸を閉める。その一連の動きを見ていた同僚の塔野(とうの)は「お育ちがいいことで」と呟き、くくっと肩を揺らして笑った。
「篤」と片手をあげて挨拶代わりにしてしまう同僚に篤は頭を下げて「おはようございます」と返事をした。
塔野は篤の肩に腕を回して「なあ、今夜辺りどうだい?」と声を潜めた。篤は塔野を振り払おうとはせずに、にこりと笑い「私はもう彼処へは行きません」と誘いを断った。
どうだい? と言うのは、酒を飲み遊郭で一夜を遊び明かそう、という誘いであり、それを篤は断った。
書庫へ行き、涼しいお顔をして授業に必要な教科書を選んでいる篤の横顔を塔野はしげしげと見つめた。
「女か……? 縁談でも整ったか? 篤よ」
篤は分厚い書を重そうに持ち「整いました。とびきりの美人ですが、もったいないので塔野には見せません」とさらりと発言し、塔野は驚きのあまりに書棚に背中を打ちつけた。
「それは、おめでとう」
「ありがとうございます」
一体、どんな女だ? お育ちが良すぎて少々物足りないこの男と祝言をあげる令嬢は…………塔野は顎に手を添えて「まったく心当たりがない」と呟いた。