夢幻罠
「ええ。八時から来て飲んでます」
時計を見た。既に十時半だった。
「もう二時間半も飲んでんだ」
「マティーニだけで六杯、それにピンクレディーを二杯飲んでます」
そこでマスターは少し眉をしかめた。
「何か悩み事があるように、私には察せられますね」
「と、言うと?」
「いえね、声を掛けるのも憚れるほど思い詰めた表情を通してるんですよ。思い切って話掛けてもうわの空のようで、少々息苦しさを感じてたところです」
その時、トイレのドアが開いた。
彼女と期せず目が合った。
彼女は消え入りそうな微笑みを浮べた。
俺も微笑み返した。
正面に顔を戻した。
「彼女に七杯目のマティーニを」
置かれたマティーニを前に、彼女はか細い首を傾げた。
マスターはウィンクすると親指で俺を差した。
彼女は俺に向かって妖精のように微笑んだ。
「ありがとうございます」
想像通りチェロのような声だった。
「この店と、君の瞳に乾杯!」
俺はグラスを掲げ、ボギーを気取った。