ひとりぼっちの藤棚
第一話
藤の花が立派に咲くのは四月から五月だ。
藤の花など、今まで目にしたことがなかった。
ずっと昔から存在していたという藤棚にも、まったく気づいていなかった。
ただただ静かに存在して、誰が育てているのか、誰が植えたのかすらわからない正体不明の藤棚の話を耳にしたのはつい最近のことだ。
結構、有名な話らしい。
藤棚のそばに民家はなく、それどころかその通り道を人が通るのかすらわからないという。
クラスの男子がノリで休日に張り込んだこともあったらしいが、藤棚の手入れにきた人は誰一人としていなかった、となぜか自慢気に語っていた。
「……母さんは知ってたのか?」
「まぁね。お母さんが小さいころからあったから」
母さんが小さいころから。
そうなると、手入れをしているのはだいぶ年寄りだろうか。
もしかすると子供や孫にでも受け継がれているかもしれない。
「懐かしいなぁ」
父さんがほんのり頬を赤く染め、昔を思い出すかのように目を閉じた。
「あなたったら。少し飲み過ぎよ」
「いいじゃないか。仕事続きだったんだから。時彦、あの藤棚はいいぞ。昔父さんはあの藤棚のそばに秘密基地を作ったんだ」
「初めて聞く話だわ」
「まだ話してなかったか。特にこれと言った出来事はなくてね。秘密基地も三週間で誰も来なくなったよ」
いいのか、それで。
秘密基地すら作ったことのない俺が言える立場じゃないため、黙っておく。
「三週間だけだったけど、その三週間はちょうど藤の開花と重なったんだ」
「いいわね、あの藤棚のそばで過ごせるなんて」
上がったシソの天ぷらを皿に取り分けながら、母さんは子供のように目を輝かせた。
二人は随分あの藤棚を気に入っているようだ。
「学校が終わったらすぐに秘密基地に走って、夕方まで過ごした。休日は一日中そこで遊んだよ。食事を摂るのもすっかり忘れてね、秘密基地に夢中だったんだ」
「うらやましいわ。女子はそういうのないから」
「その間、ずっと藤棚を見ていたんだけど、誰も手入れになんて来なかったんだ。だから父さんの代は幽霊藤棚って呼んでたんだ」
「幽霊藤棚?」
「あぁ。ひとりでに咲いて、ひとりでに散って」
「なんだか悲しいわね。例え幽霊だったとしても」
藤棚のことを少し考えながら、シソの天ぷらを一口頬張った。