恋架け橋で約束を
第1章 7月1日

出会い

 うう……。
 目を開けると、驚いたことに、私は屋外で倒れていたみたいだった。
 そして、口に広がる嫌な苦味。
 どうやら土と落ち葉が口に入っちゃったみたい。
 汚いよ……。
 どうやら転んで気絶していたようだった。

 うわぁ、服が土で汚れちゃってる。
 土というよりも泥かな、これ。
 私は手でワンピースの泥を払った。

 それにしても、ここ、どこだろ。

 ……………。

 っていうか……。

 私、誰?!



 何も思い出せない……!
 私は誰で、ここはどこなのか……。
 落ち着かなきゃいけないと分かっているつもりでも、焦燥と困惑が私を追い詰めていた。
 慌てて私は身の回りに手がかりを探すが、これといって何も見当たらない。
 腕時計も着けていなかったし、私の持ち物といえば、着ているワンピースと靴だけのうように思えた。
 手ぶらで出かけていたのかな。
 そして、私の身に何があったんだろう。
 私は注意深く、自分の身体を調べたが、特に異常は見当たらず、痛みを感じる箇所もどこにもなかった。

 ふと何気なく視線を落としたら、私のいる位置から少ししか離れていないところに何か落ちているのが見えた。
 気になって近づく私。
 しゃがんで拾い上げてみると、絵馬のようだった。

 その絵馬には「7月7日」「来栖野佐那(くるすの さな)」とある。
 佐那(さな)って私?
 聞き覚えがあるような、ないような……。
 駄目だ、分かんない。
 でも、ここにあるということは、私の持ち物ってことでいいのかな?
 私はとりあえず、その絵馬を持っていくことに決めた。
 これが少しでも手がかりになれば……。
 しかし、これからどうしよう……。
 私は気が重くなり、地面にへたり込んでしまった。

 力なく呆然と、あたりを見回すと、どうやら人気(ひとけ)のない山道っぽい場所だ。
 私から向かって右手には、木が鬱蒼と生い茂っていて、遠くまで視界を埋め尽くしている。
 そして、そこかしこから、かすかに虫の声が聞こえていた。
 また、左手のほうには、川が流れているようで、水の流れる音も聞こえる。

 あたりは夕暮れのような色合いに包まれていたけど、少し蒸し暑かった。
 夏なのかな?
 季節すら、今の私には、はっきりと分からない。
 左側、前方に目をやると、神社の鳥居が見えた。
 ずいぶん山深い場所にある神社だなぁ。

 あ、もしかして!
 この絵馬って、あの神社のものなんじゃ?
 少しだけ元気を取り戻した私が、立ち上がろうとしたとき、私が向かおうと思ったその鳥居の奥から誰かが歩いてきた。

 見ると、私と同い年ぐらいの男子だった。
 ルックスはかなりかっこいいんだけど、身体は少しほっそりしてる感じだ。
 Tシャツにジーンズという、ラフな出で立ちが、私の目には爽やかに映った。

 ん?
 ………あれ?
 どこかで会ったことがあるかも!
 ……うーん、分からない……。
 自分の名前すら思い出せない私には、この人のことを思い出すことなど、できるはずもなかった。

「あれ? どうしました?!」
 慌てた様子で、その人は駆け寄ってきてくれた。
 ふと自分の身体を見ると、地面に座り込んだせいで、ワンピースや膝に落ち葉がついてしまっている。
 それで、私が転んだと思われたようだった。
 さっき、本当に転んでいたけど。
「あ、いえ、大丈夫です。ちょっと転んでしまって」
 私はすぐに答えた。
 この声のかけ方から考えると、この人は私を知らないのかな?
 私はこの人を見たことあると思うんだけどなぁ……どうなんだろう。

「どこも痛みませんか? よろしければ、病院へお連れしますよ」
 いい人だなぁ。
 でも、感心している場合じゃなかった。
 今の私には味方が一人もいない。
 この人を信頼できるかできないかをじっくり考えている場合じゃなく、このまま一人ではどうすることもできないのは明らかだった。

 それに…………。
 なぜか「この人は信頼できる」という思いが、心の中に芽生えていた。
 理由はさっぱり分からないけれど……。
 もしかすると、やっぱり私はこの人のことを知っているのかもしれない。
 ともかく、そういうわけで、私はその人に事情を話した。



「そうでしたか……記憶が……。大変な事態ですね」

 話を聞いたところ、この人の名前は神楽坂孝宏(かぐらざか たかひろ)というらしい。
 私は「孝宏君」と呼ぶことにして、ご本人からも了解を得た。
 私の名前は分からないけど、とりあえず唯一の手がかりである絵馬に「佐那」って書いてあるから、当面はこの名前を名乗ることに。
 もちろん、孝宏君には「これが本当の名前かどうかは分からない」ということは、しっかり伝えておいた。

 孝宏君はこの近くにあるという、寒蝉(かんぜみ)高校に通う高校一年生らしい。
 家も学校も、ここからそう遠くないところにあるそうだ。
 今日は学校から帰って着替えたあと、ちょっとお参りをしに、そこに見えている神社までやって来たという。
 孝宏君によると、まだあたりは明るいけど、すでに午後六時近いということだ。

「多分、見たところ、同じくらいの年だよね。敬語なしで話しかけてもいいかな?」
 孝宏君は優しげな微笑を浮かべて言った。
「ええ、もちろん」
 うーん、やっぱりどこかで会ったような気がするなぁ……。

「あの……。私たち、どこかで会ったことありませんか?」
「え? 僕の記憶が正しければ、初対面だと思うんだけど……」
「そうですか……。そうですよね、すみません。自分の名前すら覚えていないのに、こんなこと言って」
「ううん、気にしないで。それよりも、その絵馬が気になるね。僕は、今の今まであの神社にいたんだ。神社に入るには、あの鳥居をどうしても通らないといけないんだけど、僕が神社の鳥居前に着いたとき、佐那ちゃんの姿はどこにもなかったのは間違いない。もしいたら、さすがに気づくはずだから。そして、神社の中では僕は誰とも会ったりすれ違ったりしてないから、佐那ちゃんはもしかしたら今日は神社には入っていないのかもね。家からこの神社まで歩いてきて、鳥居をくぐるのを目前に何らかの原因で倒れてしまったのかも」
「え? じゃあ、この絵馬は……? なぜ私はこれを持っているんでしょう?」
 私は再び、手元にある絵馬に視線を移した。

「うん……。この絵馬は間違いなく、あの寒蝉(かんぜみ)神社のものだね。裏に寒蝉神社と書かれているよ」
 なるほど、今まで表ばかり見ていて気づかなかったけど、たしかにそう書かれている。
 寒蝉神社っていうんだ、あの神社。
 聞き覚えがあるような、ないような……。

「佐那ちゃん、失礼な言い方だけど……文字は今、書ける? ここにボールペンとメモ帳があるから、この絵馬に書いてあることをそのまま書いてくれるかな?」
 そっか、それで筆跡を調べるんだ……。
「孝宏君、頭がいいですね! 筆跡で分かるんですね。思いもつきませんでした」
「いえいえ」
 はにかんだ様子の孝宏君から、ボールペンとメモ用紙一枚を受け取ると、私はそこに絵馬に書いてある通りのことを書いた。
 名前の「来栖野佐那」の部分を書くとき、まるで知らない人の名前を書いているように、親しみを全く感じなかったので、これが私の名前かもしれないということを考えると、不思議な気分になる。
 文字に関しては、漢字もすらすら書けるのに……これが自分の名前かどうかに確信が持てないなんて……。



「間違いないね」
 私が書き上げたメモと、絵馬を並べてみて、首を縦に振りながら孝宏君が言う。
 私にもはっきりと分かった。
 この絵馬を書いた人物に関しては、少なくとも私ってことで間違いないってことが。
「ええ……。この絵馬、私のものみたいですね」

「日付と佐那ちゃんの名前しか書いてないってことは、佐那ちゃんも恋愛祈願に来たみたいだね」
 再び視線を絵馬に戻した孝宏君が言った。
「え? どういうことですか?」
「あの神社には、独特のおまじないのようなものがあってね。恋愛祈願に限り、絵馬に、『来た日の日付、自分の名前、好きな人の名前』の三項目だけを記入して、奉納するんだ。なぜこんな不思議なおまじないが存在するのかは定かではないんだけど、クラスメイトに見せてもらった雑誌の記事によれば、『以前、こういう絵馬を奉納し、見事に恋が叶った人がいた』ってことが由来らしいね。確固たる裏づけもないし、どこまで正しいのかは分からないけど、このおまじない自体はそこそこ有名みたいだよ」
「なるほど……。ご説明ありがとうございます」

 そっか、私、好きな人がいたんだ。
 孝宏君みたいに、かっこいい人なのかな。
 好きな人のことまで思い出せないなんて……。
 家族や友達どころか、自分のことすら思い出せていないから当然といえば当然だけど……やっぱり、つらい。

「でも変だね……」
 孝宏君が絵馬に視線を落としたまま、怪訝そうな表情でつぶやいた。
「何がでしょうか?」
「まず第一に、日付がね。今日は七月七日じゃなくて七月一日だから。さっき言った通り、普通は奉納する日の日付を書くはず」
 なんで日付が違うんだろう。
「日付を間違えたんでしょうか……」
「うーん、何とも言えないね。でも、一日二日ならまだしも、こんなに大幅にズレているなんて、おかしいかも」
 確かに、孝宏君の言う通りだ。
 孝宏君はさらに続けた。
「そして次に、どうして佐那ちゃんがこれを神社の外まで持って来てるのかってことだね。普通はすぐに奉納するはずなんだ」
 私にも全く分からないので、黙って孝宏君の言葉の続きを待った。
「最後に、どうして佐那ちゃんの好きな人の名前が書かれてないのかっていうことだね」
「そうですよね……。さっきのお話では、好きな人の名前を書かないと意味がないみたいですし」
 謎が多すぎる……。
「うーん……分からないことが多すぎますね……。あと、何が原因で記憶を失ったのかも全く分かりませんし」
「そうだね……」
 孝宏君はややうつむき加減になって言う。
「でも、佐那ちゃんの家はきっと近所にあるんだと思うよ。見たところ、持ち物ってこの絵馬だけだよね?」
「あ、ほんとだ」
 そう言われてみれば、たしかに。
 財布もバッグも持っていないっていうことは、ひょっとしたらこの神社から手ぶらで行き来できる距離に家があるのかも。

「あと考えられるのが、佐那ちゃんが何者かに襲われてしまって、気絶している間に、バッグなどを奪われてしまったってことだけど、本当にどこも怪我していない?」
 念のためにもう一度、自分の身体を確認してみたけど、どこにも異常は見当たらない。
 私はそれを孝宏君に伝えた。

「不安にさせるようなことを言ってごめんね」
「いえいえ、いいんです。私自身、自分の身に何があったのか、さっぱり分かっていないので」
 そこで、しばし考え込む孝宏君。



 数十秒ほど間があって、やがて彼が口を開いた。
「手がかりが少なすぎるし、とりあえず交番へ行こうよ。佐那ちゃんがこの近所に住んでいるのなら、きっとすぐに身元が分かるはずだから。交番の場所は僕が知っているから、ついてきてね」
「え? 案内してもらっていいんですか?」
「うん、もちろん。放っておけるわけないでしょ」
「あ、ありがとう……」
 記憶を失って不安になっている心に、孝宏君の優しさがしみわたった。
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